東巌慧安(宏覚禅師)の蒙古降伏表白
第四類 表白
祈願の意趣を書き、次いで咒願文を副えた願文を表白と云う。咒文のみを表白と云うこともある。右に掲げた文書は、賀茂正伝寺の東巌慧安(宏覚禅師)が、文永七年五月廿六日、かの蒙古襲来の風説を耳にし、兼ねて之を攘い除かんがため、八幡宮に参篭して祈請を籠め、結願の日に当たり、読み奉った表白である。終わりの三行が咒願文に当たるのである。なおこの表白には、字面六箇所に慧安の私印が捺してある。願文表白に捺印を見るのは、極めて稀らしい例である。紙面を正確にするは申す迄も無く、又捺印に依って強い決意を表明したものと思われる。便宜本文は〔七二〇〕に収めて置く。とのことです。
土御門家に伝わる都状の正文
第三類 都状
願文の一種とも見るべきものに都状がある。之は寿命延長を祈請するために泰山府君を祭る時に奉る祭文である。既に平安時代から泰山府君を祭る信仰が行われ、之がために作った都状が朝野群載に収めてある。もちろん当時の正文は伝わっていない。この泰山府君は、古来陰陽道を家業としていた土御門家に於いて祭祀を行ったのであって、同家には、江戸時代初期から同時代を通じて、後陽成天皇以後の御歴代并に徳川家康以下の各将軍等が、泰山府君祭に当たって奉った都状の正文が十数通伝わっている。
古いときの都状の形様は、正文が伝わらないので何等知ることを得ないが、この土御門家伝来の正文を見るに、料紙は黄紙が用いてある。文字は朱筆を以て書き、文中天皇の御諱のみ墨筆にて宸翰を染めさせられたものである。将軍家の都状も、同じく朱筆にて書き、諱の文字だけ将軍が自筆を以て書いている。黄紙朱書を用いたのは、祭文を神聖にするためにとった手段と思われる。とのことです。
中世室町時代に及ぶと願文も次第に書札様となっていく
〔七一五〕は山内上杉憲政が、小田原北条氏を討滅して同家勢力の復興を、鹿島神宮に祈請するために作った願文、日附の次に充所に当たるものを書いているのは注意すべき書式である。先に挙げた願文類には書札の如き書式をとったものは無い。之が願文の通例である。然るに中世室町時代に及ぶと、願文も次第に書札様となって、ここに見るが如き書式の願文が作られたのである。この傾向は後に説く寄進状に於いても同様であった。〔七一六〕は、毛利輝元が文禄元年朝鮮役に出陣し、大神宮に武運長久を祈念するために奉ったもの、之にも充所が加えてある。
以上挙げた諸例に依って判るように、願文は各時代に於ける敬神崇仏の歴史を知る上に極めて重要な史料となるものである。とのことです。
関東管領足利持氏の血書の願文
次に願文としてその形様の著しく異なったものとして、左の如きものがある。
(略)
将軍足利義教と関東管領足利持氏との間は円満で無く、義教は機会あれば持氏を仆さんとし、又持氏も義教に心服するところが無かった。この願文は、持氏が敵意を持つ義教の攻撃の未だその身に及ばざる前に、之を仆して、関東管領の重任を永く得んがために、鶴岡八幡宮に大勝金剛尊等等身像を造立して祈請せんがために作ったものである。前述した兼実の願文の如き、金泥を以て書くのは特別なもので、通例は墨筆を以て書いている。然るにこの持氏の願文は墨筆を用いず血書している。但し血書と云っても全く身血を以て書いたのでは無く、朱に血を和して書いたもので、一見朱書の観を呈している。然し兎に角血をも用いて書いたところに、その祈願の意趣の並々ならぬ有様が窺われる。経文等にはまま血筆にて写したものがあるが、願文としては実に類稀のものである。墨に血を和して書いたものとしては、小早川家文書の中に琴江令薫の起請文があり、全文血筆を以て書いたものとしては、上杉家文書の中に近衛前嗣(龍山)が長尾景虎(謙信)に送った起請文がある。何れもその決意の強いことが推知される。とのことです。
伴信友が写した東寺に伝わる足利直冬の宣命体の願文
以上造立供養の願文の諸例を一二挙げたが、単に祈請のために捧げた願文の例を示すと、〔七一三〕は中院定平が、天下泰平万民王化に帰せんこと、即ち後醍醐天皇の一統の御政治の実現を、観心寺本尊に祈請するために奉った願文、〔七一四〕は足利直冬が正平十年正月、官軍に応じて京都に上り、賊軍を撃たんとしその治罰成就を神仏に祈請するために奉った願文、もと東寺に伝わり、伴信友が同寺の文書を調査した時に写したものが、信友の調査筆記請文零聚楽に収めてあり、その説明に「竪四寸許の斐紙に書たり、古色当時のものなるべし」と記してある。蓋し戦陣の間にあって作ったものであるから、小さい切紙に書いたのであろう。又文章が全く宣命体をとっていることも注意を惹く。とのことです。
胎蔵界百八十尊の種子と金剛界三十七尊の種子を刻んだ高野山の石塔婆
更に造立供養の願文の一例を示そう。
高野山には古く弘法大師が同山の参道に造立したと称する木札の卒塔婆があり、其れが鎌倉時代の中頃汚損したので、遍照尊院覚斅が勧進し、上は後深草上皇を始め特に関東幕府の重鎮秋田城介泰盛の奉加に依って、参道壇上より慈尊院迄の間に、胎蔵界百八十尊の種子を刻んだ石塔婆百八十基、又壇上より奥院迄の間に、金剛界三十七尊の種子を刻んだ三十七基を建立し、之が落慶供養の願文として作ったもものが、右の図版に掲げた文書である。
その料紙は鳥子金銀切箔砂子を以て下絵を画き、その上に願文を書き、実に荘厳に飾ったものである。其筆者は世尊寺行能と伝えている。造立祈願文の古い標本として挙ぐべきものである。本文は便宜〔七一二〕に収めてある。とのことです。