北条武田両家の文書に対して、越後上杉氏の文書は如何であったろうか。上の図版に示すものはその一例である。
この文書は、上杉景勝が、家臣栗林肥前守就頼に、上野国の荒砥の関所を同家の料所とし、その代官として管理する為に之を預け置くという朱印状を出したから、従前の如く往来が自由になり、人馬が子の関所を通過するようになったならば、役等即ち関銭を徴収し、上杉家に進納すべきことを伝える為に出したものである。とのことです。
然るに武田家のものは、晴信の極めて早い時のものは上部であったが、後には悉く日附の終わりの日字にかかるか、若しくはそれをはづれた下に捺すきまりとなっている。同じ日附の行に印を捺しても、両家のきまりにかような相違が現れている。とのことです。
北条家の印判は、悉く日附に捺したものであって、袖に捺したものは一つも無い。武田家のものは、袖と日附と両様になっている。而して北条家は日附に捺すに、早い時には日附の字面の下部に捺すこともあったが、これは少しの間で、大永の末年からは、必ず字面の上部に捺している。とのことです。