別當宣を施行するために下した下文

〔八九〕に挙げたのは、元亨元年五月十六日千鶴丸と申す者に下したもので、このころになると正文が諸所に伝わっている。これは別當が訴訟を裁許し、その仰を奉って出す奉書というべき文書の一種で別當宣を施行するために下したものである。また訴訟の訊問のために、訴人(原告)論人(被告)を召喚する場合に出す下文もある。右に挙げた下文に関する別當宣等も伝わっている。これらについては、各その項において説いてある。互いに関係のあるところがよく判る。とのことです。

検非違使庁の下文

ろ 検非違使庁下文

蔵人所に次いで設けられた検非違使庁からも下文を出している。

〔八八〕に挙げたものは、天永二年三月日、大和榮山寺の寺領に関して、源親子に対する同寺の訴を裁定した時の下文であって、親子の提出した證文は紛失状のみで、さしたる公文無きにより、榮山寺の所持せる天元二年の官符ならびに寛和六年の民部省の寺領勘査の状に任せて、親子の妨を止め、同寺をして領知せしめる旨を伝えるために出したものである。

文中別當宣に依って仰する所云々とあるのは、日附の下以下に位署を連ねた検非違使庁の役人が、その長官たる別當の仰を奉じて、この文書を出すという意味を表しているのである。

検非違使は、平安時代における令外官で、この時代に最も活動したのであるが、かかる下文の原本、案文ともに伝わるものが少ない。ここに挙げたものは平安時代における唯一のものである。このほかに案文として、これより三年前、嘉承三年東寺領摂津垂水庄の課役徴発を止むるために出したものがある。〔八八附録〕の文書がそれである。独立した文書としてはこの二通に止まる。何れも珍重するに足る。とのことです。

蔵人・蔵人所から出る文書は宿紙

さてかような供御の料に関して蔵人所から多く下文を出したであろうけれども、今伝わるものは、右の他に同じ島津公爵家所蔵臺明寺文書のなかに建仁二年閏十月附のものが一通あるに過ぎない。このわずかな例によって多くの下文を類推することができる。この下文の料紙は、両通ともに宿紙を用いている。蔵人が関係して出す文書は、前項に説いた口宣案を始め、後項に説く綸旨も、大体宿紙を用いるものであった。それにこの下文も宿紙を用いており、これらの事例によって、蔵人ならびに蔵人所から出る文書は、その料紙に宿紙を用いるのが通例であったと見做して誤りがないようである。とのことです。

宿紙はしゅくし、すくしとも読み、一度文字を書いて使用した紙をすき返して再生した薄墨色の紙のこと。

 

大隅国臺明寺の境内に生える笛用の竹

蔵人所嵯峨天皇の御代に置かれ、蔵人は禁中に於いて側近に奉仕し、御書籍衣服調度の事を掌り、のちには先に述べた宣旨の項で記したごとく勅旨の伝宣に携わった。また蔵人所は朝夕の供御の事も掌っていた。ここより出した下文はあまり古い時のものは伝わっていない。〔八七〕に挙げた文書は、延久三年十一月四日、山城田原小栗栖司等に下した下文であるが、その初見である。右の図版に収めた文書は、供御の物に関して大隅国の臺明寺に下したものである。同時は天智天皇御代から勅願の霊場と伝え、既に平安時代から、蔵人所供御の料として御笛の竹を貢納していた。この召物を徴収するために下る使が先例を無視し、新たに徴納の使の寺僧に対して煩をかけたので、寺僧からその不法を訴えた。この訴によって、召物使すなわち徴納の使の寺僧を煩わすことを止め、在庁官人と寺僧等が、よく先例を守って御笛の竹を進納するように取り計らわしむるために出した文書である。大隅国は九州の南端にあり、気候温暖にして竹林がよく繁茂し、この臺明寺境内に、笛を作るに適していた特殊の竹が生長し、同寺から蔵人所に向かって供御の料としてこれを進納していたのである。この臺明寺の貢納の竹に関する文書は、平安時代末期のものがあるが、それが蔵人所に納むる関係から、右に挙げたごとき下文がでることとなり、これが幸い今日に伝わっているのである。とのことです。

令外官の下文―蔵人所下文

第三種 令外官下文

平安時代に至って新たに設けられた蔵人所以下の令外官からも多く下文を出している。

 い 蔵人所下文

  蔵人所下 大隅国臺明寺住僧等

   可令早任先例停止笛竹使新儀非法、安堵寺内事、

    使

  右彼者、国中第一之霊地、鎮護国家之砌也、仍昼夜不断、奉祈聖朝安穏御願之処、

  件使等、寄事於左右、致寺僧煩之間、粗企離山思之由、所訴申也、事若實者、甚以

  不便、自今以後、早停止彼煩、安堵寺内、且彌奉祈聖朝安穏之御願、且在庁官人相

  共、任先例可令致沙汰貢御笛竹之状、依蔵人權左少辨(藤原光親)殿御奉行、所仰  

  如件、召物使并在庁官人等、宜承知、更勿違失、故下、

     建仁二年十月 日

                   出納右衛門少志中原(花押)奉

備後国司庁宣を受けた備後留守所下文

〔八五〕に挙げた文書は、久安三年十一月八日、丹波国留守所から天田郡に下した下文で、この種の文書の比較的早い時のものである。〔八六〕に示した仁安三年十一月廿二日備後国留守所から戸張郷に下したものは、留守所が前項庁宣の部に収めた〔八四〕仁安二年七月日附の国司庁宣を受けて、これを施行した時のものに当たっている。部類の方法上両通を両部に分けて挙げたけれども、庁宣とその施行符と連関している一例として併せてみる必要がある。とのことです。

庁宣の旨を更に下に伝える留守所下文

は 留守所下文

 留守所下      春木市折両村

  可令相替 一御社御供田拾参町壹段佰貳拾歩由事、

  本御供田拾町壹段佰貳拾歩本十六町内

  新 御 供 田 参 町  内

   於壹町者二季御祭幣料布拾陸段代立用、

 右件以両村作田當社御供田所相替也者、彼村司等、宜承知、用之、故下、

    安元元年十一月  日

                  大判官代佐伯朝臣(花押)

                      佐伯朝臣(花押)

                      佐伯朝臣(花押)

                  惣大判官代源朝臣京上

                      介源朝臣(花押)

                  目代散位藤原朝臣(花押)

留守所は国司が遙任の場合、在庁の官人が国府にあって国務を執る所である。これに向けて前に記した庁宣が下ることがあると、その旨を下に伝えるために、この留守所から下文を出した。右に挙げた文書はその一例である。厳島御供田として春木市折両村の田地を相替えて寄せるために出した下文である。かように留守所の下文は、庁宣の旨を、更に下に伝えるものであったから、これを下文といわず施行符と称していることもある。この称呼によって、下文が符に代わるものと考えていたことがよく判るであろう。とのことです。