地頭御家人等地位の低い者に賜った綸旨

扨てかように充所の無い綸旨は、従来無かったものであって、この時から下されたのであるが、それは何れも地頭御家人等地位の低い者に賜った。かような地位の低い者には、充所のあるのは書礼上厚きに失する嫌があるので、之を省いたものと思われる。とのことです。

料紙は普通の大きさの宿紙

その初見の綸旨は、実に〔二七〇〕に挙げたものである。之は(元弘三年)四月九日、伯耆船上山の行在所から、出雲高保に参陣を促される為に出された綸旨である。文章は頗る簡単で、而もその中に賜った人の名が書いてある。この文書の原本は、長門国須佐の男爵益田兼施氏家伝の古文書の中にあり、近時之を拝見したがその料紙は普通の大きさの宿紙である。この後かかる書式の綸旨を下されている。とのことです。

充所のない後醍醐天皇の綸旨

料紙は薄様の鳥子で大きさは原寸が図版に示した如く縦三寸六部、横二寸二分、先に挙げた後醍醐天皇が五条頼元に賜ったものよりも更に小形である。この大きさよりも更に注意すべきは、この文書には充所と云うべきところがない。綸旨を賜った人の名は本文の中に書き入れてある。かような綸旨は、鎌倉時代以前には存しなかったものであって、その始めて現れてくるのは、後醍醐天皇の元弘三年の綸旨からである。とのことです。

熊谷直平宛、後村上天皇の綸旨

熊谷彦八(直平)参御方、可致軍忠之由、被聞食了、有殊功者、可有恩賞者、

天気如此、悉之、以状、

正平六年五月十四日   右兵衛督(花押)

ここに図版に挙げた文書は、後村上天皇の綸旨で、安芸の熊谷直平の来附を褒せらるる為に出されたものである。とのことです。

      

漉き返しでなく薄墨に染めた宿紙

この後京都御還幸迄に出された綸旨の料紙は悉く普通の紙の大きさのものであるが、中に白紙を用いたものがある。之は行在所に於いて宿紙を充分備える便宜を欠いていたに依るものと拝察される。尚吉野時代に於いては、宿紙を用いてもそれが漉き返しのものでなく、薄墨に染めたものがあるが、之は尋常の宿紙が払底して、簡略の方法に依って宿紙を作った為と思われる。とのことです。

綸旨を奉じた千種忠顕

船上山より綸旨を下された以来のもので、今日に伝わる最初のものである。これより先この綸旨を奉じた千種忠顕左近衛中将とし、蔵人頭に任ぜられているから、この綸旨は忠顕が綸旨始めの吉書として出したものと思われる。料紙は白紙を用いている。とのことです。