鎌倉時代末期から地方の守護が打渡しを行う

かくの如く、管領、守護、守護代、守護又代官、使節の施行状、遵行状、打渡状は、足利氏の幕府の初めから多く現れてをり、大体管領の権威のあった応仁文明の乱以前に盛んであった。なお、地方の守護が、幕命を施行し、地元の使節が打渡しを行う制規は、室町幕府時代に始まったことでは無く、既に鎌倉幕府の末期頃から現れている。とのことです。

管領畠山基国の施行状

管領が将軍の仰を奉じて出す文書は、既に述べた如く御教書と称したのであるが、その命令を下に実行せしめるために伝えるもの、即ち前記畠山基国が、美濃国の守護人に充てた奉書の如きものは、特に之を施行状と称したのである。この管領の施行状を、更に守護并に守護代等が施行遵行するために出す文書も、又一種の奉書と見得るのである。然し、その書式は一般の奉書とは異なって、上から命を伝える文書の意を伝達する形式となっていることを注意しておく必要がある。とのことです。

打渡状若しくは渡状

之を守護の施行状若しくは遵行状と云う。最後に使節として地元に於いて沙汰を実行する者が、当該所領をこの沙汰の相手方に渡付することを打渡すと云い、この時文書を以ってその旨を伝える。その文書を打渡状若しくは渡状と云う。〔六八二・六八三〕に挙げたものはその一例である。之は上より下に逮ぶ文書と云うよりは、上の命令を遵奉して実行した返事と考えられるものであるから、部類を異にして第五部に挙げた次第である。とのことです。

御判の御教書を受けた施行状

この施行状は更に下級の者が相承けて下に施行することもある。かようにして幾通か施行のために出す文書が連続して作られるのである。

〔四一〇〕に挙げたものは、応永八年六月十四日附で、管領畠山基国が、佐竹常尚の知行地美濃国山口の事に関して、五月二日附の将軍家の御判御教書を受けて、同国守護土岐頼益に命を伝えた施行状で、〔四一一〕は、六月十六日、守護人頼益から、更にこの命を守護代富島浄晋に伝えたものである。とのことです。

鎌倉極楽寺の末寺称名寺の長老釼阿

なお寺院に於いて綸旨を施行した形式の文書として〔四〇九〕の如きがある。これは元弘三年八月十九日、鎌倉極楽寺の俊海が、同寺の勅願寺たること、并に同寺及びその末寺の所領安堵の綸旨を賜り、この綸旨の趣を末寺称名寺の長老釼阿に伝えるために出したものである。書式は極めて鄭重なものとなっている。とのことです。

河内守楠木正儀の施行状

〔四〇八〕に挙げたのは、正平十年四月十日、河内守楠木正儀が、摂津山田庄を金剛寺結縁灌頂料所に寄附せらるる由の綸旨を、摂津国の代官橋本正高をして遵行せしめるために出した施行状である。とのことです。

当時極めて多数出された施行状

令旨を施行するために出したのであるから、之を施行状と云う。かような施行状は当時極めて多数出されている。彼所に莅み、其の節を遂げ、起請の詞を載せ、注申せらるべしとは、かかる施行状に定まった文言である。実際下地を渡付したかどうか、或いは何かの理由でそれを果たし得なかったと云う事を、偽り無き起請文の言葉を副えて報告するのである。とのことです。