田村清顕の白川晴綱宛書状

又かかる料紙の折り方をし、而もその料紙を切らず、その一部を封紙に充てて、封を調えるものもある。之を図版(第一三七図)に示すと、左の如きものである。(略)

この文書は、陸奥三春の田村清顕が、同国白河の白川晴綱に送った書状である。図に現れた横の折り目が二筋あるが、この筋目で内側に折り、中間にて縦に二つに折り、それを次第に細かく左端へ向け、裏側へと折り込み、左端で巻き止めて「南え自三」の上書を記し、封を加えたのである。とのことです。

折封と切封とが合わさった封式と料紙の横ノ内折とは相応する

この横ノ内折の場合には、上包の封の仕方にも特色をもっている。上包の料紙で本紙を包んだ後、上包が本紙の文よりも余るが、この余った部分を、上下共に裏へ折り返し、その折り返したところを、紙縒で結ぶ、ここまでは先に述べた折封と同様である。然るにこの紙縒で結んだ裏のところに墨引即ち封の印を書く、之は上下に加える。この墨引きは切封の時と同じく封の字を極端に崩した印をくわえている。即ちこの封目は折封と切封とが合わさったようなものと云うべきである。之を図版(第一三六図)に示すと、左の如きものである。この封式と料紙の横ノ内折とは必ず一致し、相応した式となっている。とのことです。

横ノ内折

かように折り畳んで、その上に上包の紙を懸けて封が施してある。最初料紙を横に内側に折ることが特色であるから、これを特に料紙の横ノ内折と称して置く。この横ノ内折は、二筋或いは三筋に折ることがある。この折り方に調えた料紙は竪に細く切ったもの計りでなく、普通の大きさのものを用いていることもある。とのことです。

結果として折紙の形式と相似るように調えられた形式

さてこの文書の形状を子細に観察すると、竪に長いことに気付かれるであろう。これは料紙を竪に切って用いているのである。更に紙面の中央を注視すると、横に折った筋目のあることにも気付かれるであろう。これは文字を書き署判を終えて、料紙を折る時に、先づ内側に横に二つ折にした為である。かく横に二つ折にして後、竪に二つ折にして更に細かく折り、丁度最初から横に二つ折にした紙面に文字を書いた後、竪に折った即ち折紙の形式と、結果に於いては相似るように調えたものである。とのことです。

今川氏真の北条氏家臣大藤政信宛感状

(略)

この文書は、永禄十二年六月武田信玄駿河富士郡の大宮城を攻めた頃、北条氏の家臣大藤政信が伏兵を出して、駿河から甲斐に塩を運送する者を討ち取り、敵国たる甲州勢の往復を絶った軍労を感謝する為に、今川氏真から出した感状である。この事実によって甲斐と駿河との間が交戦状態に入ると、駿河勢は同国から甲斐に塩荷の上ることを遮断して、敵国をして経済的に困却せしむる方法を講じたことが判る。とのことです。

戦国時代に地方の特色を持った折り方が出現

次に更に料紙の折り方に遡って説明を重ねべきものがある。先に述べた料紙の折り方は、何れも京都を中心にした書礼の中に於いて行われているものであった。之が戦国時代になると、地方的の特色をもった折り方が現れ、之に連関した特殊な封紙も現れるに至った。とのことです。

 

連署の書状は公家ではなく武家で用いられた

終わりに連署の書状に就いて特筆すべきは、この形式が公家の文書から盛んになったのでは無く、鎌倉時代武家の文書から大いに用いられるようになったことである。元来書状は個人的のものであって、一旦連署となれば、形式上その意味を離れて公の意味を持ってくるわけである。公家の文書は、形式の上ではどこまでも書札様文書本来の意味を失わない傾向を持っていたのである。とのことです。