上杉景勝の印判状

北条武田両家の文書に対して、越後上杉氏の文書は如何であったろうか。上の図版に示すものはその一例である。

この文書は、上杉景勝が、家臣栗林肥前守就頼に、上野国の荒砥の関所を同家の料所とし、その代官として管理する為に之を預け置くという朱印状を出したから、従前の如く往来が自由になり、人馬が子の関所を通過するようになったならば、役等即ち関銭を徴収し、上杉家に進納すべきことを伝える為に出したものである。とのことです。

甲信地方は武田流、関東地方は北条流

次に奉者の傍に書く「奉之」の二字も、北条武田両家で相違している。北条家は始めは奉者の名を書いた左右両方の傍に書いたが、後には必ず右の傍と固定した。先に挙げた陸奥安房守両名の場合でも、右側の人の右の傍に書いてある。之に引きかえ武田家は必ず左の傍ときまっている。かように上下、左右、北条武田両家の文書は、対称的に相違を現している。この両家に倣って甲信地方の小大名は武田流に、関東地方のものは北条流に倣っている。之を当時に於ける武家文書に現れた地方的特色として明確に知ることができる。とのことです。

日附の行に印を捺すには違いがある北条家と武田家

然るに武田家のものは、晴信の極めて早い時のものは上部であったが、後には悉く日附の終わりの日字にかかるか、若しくはそれをはづれた下に捺すきまりとなっている。同じ日附の行に印を捺しても、両家のきまりにかような相違が現れている。とのことです。

北条家の印判は、袖のものはなく日附、初期を除いて字面の上部に捺している

北条家の印判は、悉く日附に捺したものであって、袖に捺したものは一つも無い。武田家のものは、袖と日附と両様になっている。而して北条家は日附に捺すに、早い時には日附の字面の下部に捺すこともあったが、これは少しの間で、大永の末年からは、必ず字面の上部に捺している。とのことです。

武田信玄の龍の印判状

次に武田家に於いても、この類の印判状を多く出している。今その一例を〔四七九〕に挙げたが、これは元亀三年七月廿五日、信玄が、大坂石山本願寺門徒との関係を深める為に、信濃安曇郡一向宗の正行極楽安養の三箇寺に、深志即ち松本城の普請奉行衆から課する普請以下の諸役を免除する為に出した印判状である。日附の日の一字にかけて龍の印判が捺してある。とのことです。

北条氏照、北条氏邦が奉者となった印判状

陸奥守は武蔵八王子の城主北条氏照安房守は同国鉢形城北条氏邦で、共に北条氏の一族中当主に次いで重き地位を占めていた人々であるが、この印判状の奉者となっている。この両人は単なる奉行人と認むべきものでは無く、北条氏一門の中にあって、諏訪氏の申次とも云うべき地位にあったと見るべきである。この類の印判状に現れる奉者には、かかる意味の人々もあることを注意しておく必要がある。とのことです。

甲斐の武田家滅亡後に出された北条氏の印判状

〔四七八〕に挙げた文書も、北条氏の印判状、甲斐の武田家滅亡後、天正十年七月十三日、北条氏が武田家の旧領信濃国を治める方策として、諏訪郡高島城并にそれに伴う知行を、諏訪大祝并に千野右兵衛尉に充て行う為に出したもので、日附の字面に、虎ノ印判が捺してある。又日附の下には、陸奥安房守の両人の受領名の者が奉って出した如く表してある。とのことです。