里見家、南方の朱鳥から小田原の白虎に対して東方の青龍に変えたか

尚憶測に過ぎないが、里見家の鳥は安房が関東の南方であるところから、方位相応の南方の朱鳥を表したものであり、後之を龍に変えたのは、関東西方の雄藩小田原に対して、房総地方は東方であるところから、小田原北条氏の虎ノ印判を西方の白虎に見立てて、自家の印に東方の青龍を表したものであるかとも思われる。兎に角印文以外の形像にも、それぞれ意味を表していたことは明らかである。とのことです。

里見氏の特徴である籠字形の印文

次いで義康も、右の図版に見る如く、義継と同じ形式のものを用いている。この後義康は、上部の龍を除いた「義康」の実名のみを印文としたものを用いている。尚里見家の老臣正木時茂は、上部に獅子下部にその実名「時茂」の二字を配した印を用いている。

此等の印を通観すると、その形式は上部に動物を画き下部に苗字実名を配する遣方で一貫している。而もその印文の文字は、図版に見る義康のものと同じく、一様に籠字形である。かような点が里見氏の印の特徴と認められる。とのことです。

安房の里見義康の寺領安堵の印判状

(略)

この文書は、安房の里見義康が、同国小松寺の寺領に対する正木安芸守の違乱を止めて、元の如く同寺領として安堵する為に出したものである。

日下に龍を画いた下に「義康」の二字を配した朱印が捺してある。里見氏の印は、永禄の末年上部に鳥を書き下部に「里見」の二字を配した黒印、元亀年間義継と云う者が、上部に龍下部にその実名「義継」の二字を印文に配した黒印を用いている。とのことです。

女性の出した印判状

尚婦人の方から出した印判状は、後項に図版を掲げて説明してあるが、ここに少しく特別な事情から、差出者側に婦人の関係した印判状の一例を挙げる。〔五一六〕は、天正六年八月吉日附の印判状で、日下に方形重郭印文「親隆」とある黒印が捺してある。親隆は陸奥岩城氏で、明らかに男子であるが、本名は仮名で書いていある。之は親隆が病身であった為、その夫人佐竹氏が代って政務を執っていたので、印は当主のものを捺して、本文を仮名書きに記したのであると云う。(岩城文書中山信名註記参照。)とのことです。

印判状に於いても女性充ての文書は仮名で書くことがあった

それがここに至って復興するを得たのである。この赦免の印判状が、家成の母に充てて出されたのは、この人がその復興を発起して大いに尽力したからであろう。そこで婦人に充てた文書であるが為に、本文を仮名に書き表したのである。御教書類が婦人充である時、仮名に書くことのあったこと、否それが中世の書礼であったことに就いては既に述べたが、この印判状に於いても同様であったことを、右の福徳の印判状で明らかに知ることができる。とのことです。

三河国の一向宗一揆

〔五一五〕は、同じく福徳の朱印を捺した印判状の一例で、天正十一年十二月丗日、徳川家康が石川日向守家成の母妙西に、家康の領内に於いて一向宗徒再興を許せる旨を伝えたものである。永禄六年から同七年にかけて、三河国一向宗一揆が起こり、大いに家康を苦しめたのであるが、永禄七年、宗徒が家康の軍門に降ってから、同宗は禁絶せられていた。とのことです。

封紙を具えているものが少ない印判状

印判状の今に伝わるもので、其封紙を具えてくるものは少ない。従ってその形状が如何であったか、古い時のものは殆ど明らかでないと云ってよい。然るに右に挙げた福徳の印判状には、幸いにこの封紙が伝わっている。之を見ると、紙質は本紙と同じであり、封の形式は折封であり、上書は充所のみ書いてある。当時の印判状は大体このような形式であったと認めて差し支えないであろう。とのことです。