単独署判、折紙の奉書

幕府奉行は必ず連署であるが、この種のものは単独署判であることと、その料紙に於いて幕府のものに竪紙折紙の両様あるに対して、これには竪紙のものは殆ど見ることができぬ相違がある。然し更に注意すべきは、将軍職を両人が争い、一方幕府を営んでいる将軍の許にある奉行の出す奉書と、之に対立する者の許に於いて殆ど差異を認め得ないことである。とのことです。

応仁乱後の管領に侍した重臣が出す奉書

此等の中で特に注意すべきものに、応仁乱後幕府の管領若しくは将軍に侍していた重臣の奉行が、各主人の仰せを承って出す奉書がある。〔三三二〕に挙げた文書はその一例、大永八年六月十八日、細川晴元の侍臣三好元長が、晴元の命を奉じて、加茂別雷社領堺内の内二瀬村を安堵する為に出した奉書である。とのことです。

稲村崎警固を命じた奉書

武家諸士奉書

室町幕府の奉書は、管領奉行が将軍の命を奉じて出した文書が主要なものであったが、他の人々も奉書を出している。〔三三一〕に挙げた文書は、建武二年十一月六日、高師冬等が鎌倉に於いて尊氏の命を受けて、御家人に鎌倉中入口の中稲村崎の警固を申し付ける為に出した奉書である。兎に角奉書は、武家に於いても極めて広く用いたものであった。とのことです。

下知状と同じ書止め文言をもつ竪紙の奉書

〔三二九〕に挙げた文書は、康正三年二月十九日、同じく奉行衆から、山城国岩倉の実相院の所領に関して出した竪紙の奉書であるが、その書止めに「下知如件」の文言を用いている。之は極めて珍しい例であって、之に依って書止めに下知状と同じ文言を用いるもののあったことが知られる。〔三三〇〕に挙げたものは、文明十四年十二月三日、安芸国吉川経基に対して、畠山義就対治の為河内国に参陣を促した文書であるが、之は折紙の奉書である。とのことです。

陸奥国に送った切紙の奉書

尚〔三二八〕に挙げた文書は、文明五年八月六日、奉行衆から陸奥国石河氏一族に、北国の敵勢討伐に参陣を促した奉書で、その料紙は切紙を用いているが、書式は竪紙折紙と同様である。蓋し切紙は陸奥国という遠方に送った為であって、之が礼儀上の意味を表しているとは見ることができない。とのことです。

琉球に渡海する船舶

次に〔三二七〕は、文明六年九月廿一日、幕府奉行衆から、薩摩国の守護島津忠昌に、琉球に渡海する船舶の事に関して出した竪紙の奉書である。之に依って島津氏の許可が無くしては琉球と往来することの出来なかったことが判る。とのことです。

大神宮造営費用に充てる役夫工米(やくぶたくまい)

役夫工米とは大神宮造営費用に充つる貢米であるが、当時由緒ある社寺の所領は、特にその賦課の免除を受けていた。その一例を右の如き奉書に依って知ることができる。この奉書は奉行が三人である。日下に位署を加える者が本奉行で、次行からの者が合奉行となっているのが通例である。とのことです。