奈良平安時代と異なる鎌倉時代以降の過所

過所は、既に二箇所に之を挙げて説いた。公式令にその書式が示してあるが、奈良平安両時代を通じて、その実物の伝わるものを発見し得ない。尤も朝野群載に、その一例が挙げてあるが、之とても書様即ち書式を示したに過ぎない。又右に説いた過所は、諸関を通過する人々の身元証明書とも申すべき公文であった。然るに実物の遺るものとして上述した鎌倉時代以降に於ける過所は、関所料免除の特典を与える為目の文書であって、奈良平安時代の過所とは、全くその意義を異にしている。それにも拘らず過所と称してはをるが、前掲鎮西探題の過所の端裏書に見る如く、大抵過書と書いている。ここに於ては、本義に基いて、過所の文字を用いることとする。とのことです。

鎮西探題の出した過所

尚お〔一九三〕に挙げた文書は、文保元年六月十九日、藤原政貞と申す人が備前安養寺に掲げた禁制であるが、紙を用いて書き、その書式は先の時政のものと同じである。又〔一九四〕は、遥かに降った元亀三年八月、常陸介某が、摂津天王寺地下に出した、頼子講以下五箇条の掟書であるが、これ又同様の書式を具えている。

禁制掟書以外に特殊な文書である過所にも、この書式を用いたものもある。〔一九五〕に挙げたのは、延慶三年五月廿日、鎮西探題肥前東妙寺造営料の材木を積む船舶に、関所料の免除を許す為めに出した過所である。とのことです。

最古の北条時政の禁制

第三種 禁制・過所

更に内容の特殊なものとしては、左の如き禁制がある。

 河内國薗光寺者、

 鎌倉殿(頼朝)御祈祷所也、於寺并田畠山林等、甲乙人等不可乱入妨之状如件、

      文治元年十二月 日

                           平(時政)(花押) 

文治元年十二月、北条時政河内国薗光寺に出したものである。この禁制は、今伝わる禁制の中実に最古のもので、然も木札に書いた文書である。その形は右図の如く、大きさは縦一尺三寸、横五寸三分に過ぎない極めて小形のものである。尚お禁制の形態に就いては、後項で詳述するところがある。とのことです。

足利義稙の御判御教書

足利氏の幕府時代に於ても〔一九〇〕は、康永二(興国四)年十月廿二日、直義が神護寺丹波吉富庄の相論に関して出した裁許状であるが、前陳の裁許状と同じ書式を具えている。次に〔一九一〕は、応永二十六年九月十二日、将軍足利義持が、北野宮神人の訴訟に依り、他所に於て酒麹を作ることを禁じ、同神人の酒麹商売の特権を従前の如く保持せしめる為めに出した裁許状であるが、之も同じ書式を具えている。又〔一九二〕に挙げた如く、明応八年三月十一日、同じ書式で将軍義稙から、京都廬山寺領返附并にその安堵を伝える為めに出したものがある。とのことです。

佐藤進一氏著「鎌倉幕府訴訟制度の研究」に據る

又この式の下知状は、鎌倉幕府の奉行人も出している。〔一八七〕は、正安元年六月七日、侍所が小早川定平と同一正丸頼辨との鎌倉番役に関する相論の裁許状として出したもので、その一例として挙げることができる。又〔一八八〕は、正嘉二年十月十八日大隅国守護人名越時章御家人佐多宗親と其の兄親綱との相論を裁許する為めに出したものであるが、同じく書止めに、下知如件とある。更に〔一八九〕は、文保三年正月卅日、秋田時顕が守護人として出したか否か明かでないが、裁許状の一例で、同じ書式をとっている。とのことです。

〔一八七〕については、

この裁許状、侍所のものなること、佐藤進一氏著「鎌倉幕府訴訟制度の研究」に據る。

という註がついています。

 

六波羅探題の下知状

第二種 下知状・御教書

施行状計りで無く、訴訟を裁許する為めに出した文書にも此書式を用いている。〔一八六〕は、嘉禎四年十月十九日、六波羅探題が山城松尾社雑掌と地頭大宅光信との同社領丹波雀部庄の年貢以下の事に関する相論に対して下した裁許の文書である。六波羅からは仰に依って下知如件と結ぶ既説下知状の式のものを出さず、ここに挙げたものの如く、単に下知如件と結ぶものを以て、訴訟の裁許状を出している。形式から云えば、奉じたもので無く直接出したものである。之も文書の名称としては下知状と呼んでいる。この下知状も、前出関東鎮西の裁許の下知状と共に重要な文書であることに変りは無い。とのことです。

綸旨を施行する六波羅探題の施行状

六波羅の施行状は、幕府の下文計りで無く、勅命を伝える文書である綸旨をも施行する為めに出ることもあった。〔一八二〕は、嘉暦三年八月十三日、山城大山崎神人等に八幡宮内殿燈油荏胡麻に対する関所料免除を伝えらるる臨時を施行する為めに出した文書である。六波羅探題と並んで、鎮西探題鎌倉幕府の文書を承けて施行状を出している。〔一八三〕は一例で、永仁六年十一月廿六日肥前東妙妙法両寺の殺生禁断に関する宣旨并に幕命を伝える為めに出した施行状である。又諸国の守護人も同様施行状を出している。これ等は、幕府の文書計りで無く、六波羅鎮西両探題の文書をも施行することがあった。〔一八四・一八五〕に挙げたのは、出雲、丹後の各守護人の施行状である。とのことです。