信玄・勝頼を通じても三通りの変化があったに過ぎない

それから弘治二年六月から信玄の卒去した天正元年四月迄、又次代の勝頼が滅亡した天正十年迄、引継きこの龍の朱印は、武田家の家印として使用していた。然し弘治二年六月以後のものは、皆悉く同型であって、数多い文書に捺した印形を如何に子細に対比しても、其等の形状に相違を発見し得ない。要するに信玄の一代計りでなく、勝頼との二代を通じても、この朱印の形状には、三通りの変化があったに過ぎない。とのことです。

武田信玄の印判状の龍の頭は随時向上したのではない

それはこの図版の印の方が、龍の頭がうは向になっているが、天文十二年以後改めたものは、龍頭が幾分下方に向かっている。叱らばこの両型の印が何時変わったかと調べて見ると、弘治元年十二月と翌二年六月との間に改刻したことが判る。従って龍の形に於いて、この期間を境として、先のものはその頭が幾分下向であるのに対して、後のものは上向になって来たと云うことになる。即ち時代が新しいものに龍頭の向上が現れていることは事実であるが、随時向上した形跡は認められない。とのことです。

正圓の中に昇龍の形を書いた武田信玄の印判

信玄の文書に印の現れたのは、その治国の最初からで天文十年に始まる。その時の印は、正圓の中に昇龍の形を書いたもので、その龍の頭は全然直立している。この印を用いた期間は極めて短く、既に天文十二年の文書には最初のものを改めて、別個の印を捺している。而してしの形像は同じく昇龍ではあるが、先のものとは全く相違している。何気なく見ると、この図版の文書に捺したものと同型と思われる程のものである。然し両者を子細に対比すると、この両印の間にも相違が現れている。とのことです。

従来信玄の勢力の向上と、龍の頭の上昇とが歩調を合わせるとされてきた

扨て書出しに捺してある龍の朱印は、径二寸一分正圓重郭で、中に昇龍の形像が表してある。この昇龍の形像には年代に依って変化があり、信玄の勢力が向上するに伴って、龍の頭が漸次上昇しているもののように、従来説かれている。この説明に依ると、随時印を改刻して、信玄の勢力の向上と、龍の頭の上昇とが歩調を合わせているかの如くに思われる。然し事実に於いては、右の説明にはさまで意味があるものではない。とのkとです。

奉ずる人々が名判を加えたものが少ない奉書式印判状

武田家の奉書式印判状は、極めて多く伝わっているが、名判を加えたものは一通もなく、名字と仮名或いは官途若しくは受領を書いて、その傍に奉之と附記するのが通例となっている。今川武田両家に限らず、一般から見て奉ずる人々が名判を加えたものは極めて少ない。これは同じ奉書式の文書でも、印判を交えないで花押を据えて差出所を表していた書札様の奉書と、大いに相違する点である。とのことです。

同じ奉者式の印判状でも細かい点で大分相違がある

本文書出しを見ると、そこに印が捺してある。これが直状奉書式の武田家の印判状にも屡捺してある龍の朱印である。次に日附の下を見ると、跡部釣閑齋が、之を奉ると書いてある。前に説いた今川家の印判状には、奉行の名判が加えてあったが、之にはそれが無く、単に齋号のみで、而もその下に之を奉ると書いてあり、同じ奉者式のものでも細かい点になると大分相違が現れている。とのことです。

戦国時代の交通史に関する重要な文書

第七条は棠澤郷の宿駅が、北条氏の領内に接近しているところから定めたものである。この頃右と同様の掟書を駿河国中の各宿郷に出したものと見え、天正三年に庵原郡蒲原の伝馬衆に、同四年に棠澤の外に、駿東郡沼津、富士郡厚原、根原の各郷に出したものが伝わっている。武田氏の宿駅制度史料として計りで無く、戦国時代の交通史に関する資料としても重要な文書である。とのことです。