折紙にして裏に重ねる礼紙を用いた特異な武田信虎の印判状

この信虎の印判状の図版には、印以外に更に注目すべき点がある。図版は料紙を広げて写したのであるが、料紙の形式は折紙である。折紙に別に不思議はないが、料紙が二枚重なって影っていることに気附かれるであろう。折紙にしてその裏に重ねる礼紙を用いたのである。これは他の家々の印判状には未だ見たことのないものである。とのことです。

「信」の一字と両虎の絵を組み合わせた信虎独特の印

この印判状は、正に此部類に属するものである。充所は本文の内容に依って自から現れている。袖に捺してある印は、信虎の上の「信」の一字と、両虎の絵とを以て、信虎と表したのである。かように文字と絵とを組み合わせて実名を表した印は、先づ信虎独特のものと云ってよい。又年号は所謂異年号で、天文九年に当たる。天文九年と云えば、信虎の晩年であるが、信虎は前に述べた如く、大永五年の文書に「信虎」の二字を印文とした朱印を捺し、次いで正圓の中に獅子を書いた朱印、更に又「信虎」の二字を印文とした鍔形の黒印を用いている。文書の伝わる割合に印の数は多く、印の形様に極めて興趣の深いものがある。とのことです。

上九一色村の古関の関所料免除の印判状

ろ式 日附が年月日から成り、充所を具えないもの

(略)

この文書は、武田信虎が甲斐南都留郡富士五湖の中西海の者に、西八代郡上九一色村の古関に於ける関所役を免除する為に出したものである。西海の者は材木伐、或いは木地物作に従事していたので、それらの品物を持って古関を通過する時、関役を課せらるべきであったので、之に右の如き免許状を与えたのである。とのことです。

印判と花押があり、判物と印判状との中間の文書

(略)

この文書は、陸奥黒川城主蘆名氏から、その城下町若松の商賈梁田藤左衛門に、伝馬の駄賃に関して出したものである。袖に壺形にして、印文に「止々齋」とある朱印判が捺してある。止々齋は蘆名盛氏の齋号であるから、この印は盛氏のものである。この印の下に据えてある花押は、盛氏の子盛隆のものである。即ちこの文書は盛氏盛隆父子の連署状である。花押と印とがあるから、判物と印判状との中間にものであるが、便宜この部類に附載しておく。とのことです。

書札様の文書と同様に、印判状にも連署がある

尚ここに附言すべきは、同じ日附の肩に十二支を付けても、それがその日附に示した日の時刻、即ち辰刻とか午刻とかを表していることがあるから、特に注意を払わねばならぬ。但し之は花押を書いた書状のことであって、印判状に於いてかかる例は、未だ管見に入ったものが無い。

書札様の文書に連署状があったように、印判状にも連署がある。それは差出者が皆印を捺すものと、一人が印で、他が花押であるものとがある。之は此項以下に於いて一二例示するが、この袖判に差出所を表した形式のものにも実例があるのでここに挙げておく。とのことです。

干支のものより更に軽い十二支のみを表した印判状

扨て日附の肩に卯と書いたのは、天正七年を表している。番匠に沼津から駿府に至る間の宿駅に於いて伝馬一疋の使用をゆるしたものである。かように十二支のみを表した印判状は、干支のものよりも更に軽く扱った文書である。而してこの部類に属する印判状には比較的少ないが、尚後項に説く文書の中にも、十二支を記したものがある。とのことです。

同じ印を二顆捺している武田氏の伝馬手形

伝馬専用の朱印の例については先に述べたが、ここに特に注意すべきは、印が二つ捺してあることである。異なった二顆の印を捺した例については既に述べたが、之は同じ印を二顆捺している。之は当時武田家の伝馬の掟書の一条に、公用の伝馬の手形には、印判を二つ私用のものには一つ捺すとある規定に従って発行したのである。伝馬専用の印を定めた上に、更に手形の内容の条件に依って印の数に相異を付けていることは注意すべき事実と思われる。之に依って当時印が文書構成の要素として、如何に活発な動をなしていたかが看取出きるであろう。とのことです。