2024-06-01から1ヶ月間の記事一覧

花押の代用に過ぎない大友義統の印判状

次に〔五〇五〕は、豊後の大友義統が、天正十三年家臣弥富時枝に於ける戦功を認める為に出した印判状で、袖に義統の朱印が捺してある。之には日附に当たるべきものが無いから、正確にはこの部類に入るべきものでないが、充所のないものとしてここに附載せし…

武田勝頼の官途書出の印判状

以上三例の中、始めの一通は、本文書止めが「如件」、他の二通は「何々也」となっている。ここにも前部で説いたような鄭重さの度合を表しているものと思われる。 右の如き書止めの文言を持たないで、しかもこの形式の印判状に属するものがある。それは前部に…

始め袖に後に日下に朱印を捺した羽柴秀吉の印判状

尚この形式に属する印判状の例には禁制もある。〔五〇三〕はその一例で、天正十三年七月、羽柴秀吉が越中平定の折、同国古国府の寺内、即ち勝興寺(一向宗)に掲げた禁制である。袖に秀吉の朱印が捺してある。朱印を捺した秀吉の禁制としては早い時のもので…

武田家の印判状に限る特殊な書礼、礼紙を具えた折紙の印判状

元来礼紙には、文字が書いて無いものもあった為、之を他の料紙に利用するところから、もとのままに伝わらぬものが少なくない。印判状にして今礼紙の無いことも、或いはかような事情に依るのかも知れない。然し折紙を用いて、印判状よりも数多く今に伝わって…

武田晴信の印判状にも折紙で礼紙が添えてあるものがある

然るに武田家のものとしては、右に挙げた印判状計りでなく、同じ命禄元年に、信虎が信濃南佐久郡海之口駅に出した伝馬掟の印判状にも、右と同様の印が捺してあり、且つ料紙が折紙で礼紙が添っている。尚此礼紙は信虎の印判状計りかと云うに左様ではなく、晴…

折紙にして裏に重ねる礼紙を用いた特異な武田信虎の印判状

この信虎の印判状の図版には、印以外に更に注目すべき点がある。図版は料紙を広げて写したのであるが、料紙の形式は折紙である。折紙に別に不思議はないが、料紙が二枚重なって影っていることに気附かれるであろう。折紙にしてその裏に重ねる礼紙を用いたの…

「信」の一字と両虎の絵を組み合わせた信虎独特の印

この印判状は、正に此部類に属するものである。充所は本文の内容に依って自から現れている。袖に捺してある印は、信虎の上の「信」の一字と、両虎の絵とを以て、信虎と表したのである。かように文字と絵とを組み合わせて実名を表した印は、先づ信虎独特のも…

上九一色村の古関の関所料免除の印判状

ろ式 日附が年月日から成り、充所を具えないもの (略) この文書は、武田信虎が甲斐南都留郡の富士五湖の中西海の者に、西八代郡上九一色村の古関に於ける関所役を免除する為に出したものである。西海の者は材木伐、或いは木地物作に従事していたので、それ…

印判と花押があり、判物と印判状との中間の文書

(略) この文書は、陸奥黒川城主蘆名氏から、その城下町若松の商賈梁田藤左衛門に、伝馬の駄賃に関して出したものである。袖に壺形にして、印文に「止々齋」とある朱印判が捺してある。止々齋は蘆名盛氏の齋号であるから、この印は盛氏のものである。この印…

書札様の文書と同様に、印判状にも連署がある

尚ここに附言すべきは、同じ日附の肩に十二支を付けても、それがその日附に示した日の時刻、即ち辰刻とか午刻とかを表していることがあるから、特に注意を払わねばならぬ。但し之は花押を書いた書状のことであって、印判状に於いてかかる例は、未だ管見に入…

干支のものより更に軽い十二支のみを表した印判状

扨て日附の肩に卯と書いたのは、天正七年を表している。番匠に沼津から駿府に至る間の宿駅に於いて伝馬一疋の使用をゆるしたものである。かように十二支のみを表した印判状は、干支のものよりも更に軽く扱った文書である。而してこの部類に属する印判状には…

同じ印を二顆捺している武田氏の伝馬手形

伝馬専用の朱印の例については先に述べたが、ここに特に注意すべきは、印が二つ捺してあることである。異なった二顆の印を捺した例については既に述べたが、之は同じ印を二顆捺している。之は当時武田家の伝馬の掟書の一条に、公用の伝馬の手形には、印判を…

干支を簡単にして十二支のみを日附に表した印判状

同じ袖に印判を捺した印判状でも、かかる日附の書き表し方に依って、儀礼上の差異あったのであるから、ここに於いては元号の付けてある印判状の次に之を排列したのである。 更に又干支を簡単にして十二支のみを日附に表したものがある。この部類に属する印判…

元号を表す代わりに干支を記す文書は印判状に多い

干支を記すのは、元号を表す代わりであるから、各種の文書にも用いられそうであるが、必ずしも左様では無く、大体印判状に多い。之も一つの特色である。唯、北条氏の文書について調べると、氏康から出した判物に、干支のみを記したものがある。元号を表した…

干支のみの文書は東国地方の大名の地方的特色

更に之が干支のみとなって現れてきた。かように干支のみを日附に用いた文書を発することは、全国一般の傾向では無く、大体東国地方の大名の文書に限られていた。就中相模の北条氏、甲斐の武田氏のものに多い。之も当時に於ける文書の地方的特色と認め得る。 …

室町時代中頃より公式の文書に干支を交えるものが現れてきた

この文書の本文書出しには、龍の朱印が捺してあり、この部類に入る印判状であるが、日附に注意すべき点がある。料紙は折紙である為に、月日の肩即ち附年号として、甲子と云う干支が付けてある。日附に干支が加えられることは、敢えて異とするに足らない。然…

人口の移動に制限を加えた武田信玄の掟

〔五〇〇〕は、右の伝馬の印の半分を捺した手形の初見のものである。本文書出しのところに左半の印が捺してある。即ち江戸の秀忠の許から発した手形である。 〔五〇一〕は、永禄七年五月廿六日、武田信玄が甲斐都留郡内の小山田弥三郎に、本意で無く他所の主…

左半右半を交互に用いて幕末まで続いた徳川将軍家の伝馬の印

この印の区別に依って、手形を発行した所を明確に区別し得たことは勿論である。この手形の印影について調べた結果、右半を家康が、左半を秀忠が用いていた。その後幕府の伝馬の印は変わること無く、秀忠の次の三代家光は、嘗て家康の使用した右半を襲用し、…

大御所家康と将軍秀忠とで半分ずつの印を用いた徳川氏の伝馬手形

徳川氏のこの伝馬の朱印は、更に東山道の各駅の掟にも見え、慶長八年幕府成立後も引き続き使用したが、慶長十二年と同十六年との間に於いて之を廃しし、新たに「傳馬無相違可出者也」の九字を三行に表し、之を縦に真二つに割って印に刻んだ其半分が、何れも…

偽造防止のため鳥子紙を黄色に染めた料紙を用いていた家康の掟書

これら諸大名の伝馬の掟書に依ると、手形には往々にして疑わしきものが生じ、之を以て不正を働くものも起こり、その取り締まりは厳重に定めてある。かような不正を避ける為に、特殊の印を用いたのであろうが、更に手形の料紙にも特殊なものを用いる必要があ…

永禄頃から東国地方諸大名は伝馬手形専用の印を用い始めた

この伝馬の朱印は、前説二箇の印判を捺した意義のところで言及した、特殊の文書に専ら捺す特殊の印の一例である。この特殊の印といては、之が初見では無く、既に永禄の初頭小田原北条氏が伝馬手形の朱印を用いている。之を捺した一例は、先に挙げて説いてあ…

徳川氏が伊勢山田の尼僧に与えた伝馬手形

扨てこの伝馬の朱印を捺して出した手形の一例が、〔四九九〕に挙げた文書である。本文書出しに、この朱印が一顆捺してある。伊勢国山田の慶光院の尼僧が、大坂から山田に帰る道中その使用に、徳川氏が各駅をして伝馬を仕立てしめる為に発した手形であり、之…

この印の定であるぞよと

本文は僅かに三行半、簡にして要を得ている。書出し定の字面に印を捺したのも、この文書の意味と考え合わせて、この印の定めであるぞよと、平易に誰人にも判るように示した趣が現れている。印は方二寸三分重郭、上部に「傳馬之朱印」の五字を、下部に忍足が…

五十三駅中原本を伝えるのは九駅のみ、貴重なものとして保存すべき

五十三駅中、今日に至って之が原本を伝えているところは、程ヶ谷の他に相州には無く、三島、吉原、蒲原、由比、江尻と駿河国中のものは流石に多数残り、見付、浜松と遠州が二通、之に三州の御油、尾州の鳴海と九駅に過ぎない。古文書集等に集録した写として…

慶長六年徳川家康が東海道五十三の各駅に下した印判状

定(朱印) 此 御朱印なくして、傳馬不可出者也、仍如件、 慶長六年 正月 日 ほとかや この文書は徳川家康が関ケ原役後、慶長六年正月、伏見江戸間東海道宿駅の制規を立て、各駅をして伝馬人足を仕立てしむる手形に捺す印判に関する掟書として、五十三の各駅…

特殊な文書に二様の印を捺す

他の一は特殊な文書であるが為に、他の文書と明らかに識別するように、一つの印を捺して充分な上に、更に別箇の印を必要としたことである。前記御室御供米の過所は之に当たるものである。かように特殊な文書には、自然それに専用の印が生じてくるが、その起…