2022-01-01から1年間の記事一覧

伊予守護河野通直の判物

〔三八八〕は、大永五年三月一日、伊予守護河野通直が、同国大三島社大祝に、同社の今治別宮を安堵するために出した判物、料紙は折紙である。〔三八九〕天文十九年十二月八日、肥後の阿蘇大宮司惟豊が同国小国満願寺の密教坊に知行を充て行った判物で、料紙…

佐竹義舜の年号の異様な判物

〔三八六〕は、文明六年十二月十二日、越前守護代朝倉孝景の剱大明神領安堵の判物である。〔三八七〕は、文亀四(永正元)年六月三日、常陸の佐竹義舜から、家臣茂木氏に出した判物であるが、料紙は折紙を用いている。従って日附が竪一行となっていないのは…

守護等が出す判物

又守護等が将軍の御判の御教書、或いは前記書下の書式と同様のものを出すが、之を室町時代以後から汎称として判物と称している。或いは又之を証文証状等と称している。時に将軍の御判の御教書をも、御判物と呼んでいることもある。

今川了俊の安堵書下

第七種 書下・判物 次に〔三八五〕は康暦元(天授五)年十月四日、九州探題今川了俊(貞世)が、波多大和権守の所領松浦波多村地頭職の相伝知行を確証するために出した文書、当時探題守護から出すかかる形式の文書を書下と云う。この了俊のものは、安堵書下…

安堵御判の御教書

〔三八四〕は応永廿六年十月廿七日、将軍義持が美濃永保寺の寺領の領知を確証するために出した文書、この両通の如く将軍直判にして書状様式のものを御判の御教書と云い、後者の如く所領の知行権を確証するために出すものを特に安堵の御判とも云う。依って前…

義満が関東管領足利氏満に命じた文書

〔三八三〕は、永徳二(弘和二)年五月七日、将軍義満が関東管領足利氏満に、円覚寺黄梅院の華厳塔造営課役を、鎌倉中に賦課すべきことを命ずるために出したもの、とのことです。

足利尊氏の地頭職充行の下文

〔三八二〕は、元弘三年二月廿九日、足利尊氏が上杉憲房に伊豆奈古屋郷地頭職を勲功の賞として充行うために出したものである。この後尊氏は地頭職の充行には前記下文を多く用いている。とのことです。

御判御教書

第六種 御判御教書・安堵御判御教書 以上記述した事柄の他に、なお種々の事柄に関してこの書式の文書が用いられている。所領の充行、安堵、寄附等に関して出したものの如き、殊にその数が多い。とのことです。

賤ケ岳七本槍の感状

この文書は、秀吉から加藤嘉明に与えたかの有名な賤ケ岳七本槍の感状である。料紙は折紙を用いている。褒美として三千石を充て行った時の判物もある。 感状は之を受けた者の名誉の表徴となるのは申す迄も無く、家門の栄誉を永く子孫に伝えるために、大切に保…

上杉政虎の河中島合戦の感状

更に〔三八一〕に挙げたものは、永禄四年九月三日、上杉政虎(輝虎)が、かの信州河中島の合戦に於ける麾下本田右近允の戦功を褒するために出した、河中島合戦の感状として珍しい文書である。とのことです。

応仁合戦における大内政弘の感状

次に〔三八〇〕は、応仁二年十二月廿五日、応仁合戦に於ける西軍の雄将周防の大内政弘が、麾下仁保弘有の摂津神崎城に楯籠った軍功を褒するために出した感状であるが、この文書を与うると同時に、太刀一腰を授けて労っている。料紙は又切紙を用いているが、…

安王丸の切紙の感状

次に〔三七九〕は、永享十二年七月八日、持氏の遺児安王丸が、前記の如く、下総結城に拠って公方家の挽回を図った、其合戦に於ける陸奥の石河中務少輔の戦功を賞するために出した感状である。その料紙は、縦三寸五厘、横三寸五分の極めて小形の切紙を用いて…

公方足利持氏の御感の御教書

〔三七七〕は、元弘三年四月廿三日、中院内大臣法眼が、伊予の忽那孫次郎入道が官軍として忠勤を抽んでたことを賞し、且つ之を天聴に達せんことを約した感状と称すべきものである。次に〔三七八〕は、正長二(永享元)年七月廿八日、足利持氏が、小野崎越前…

河内千早城に籠る楠木氏

〔三七六〕に挙げたものは、正慶二(元弘三)年四月廿一日、河内千早城に楠木氏を攻めた関東の大将阿曽沼治時が、和泉の御家人和田中次の同城北山に於ける合戦の軍功を褒めるために出した感状である、折紙を用いている。致し方ない次第であるが、之が今に伝…

戦功を賞するために出した感状

第五種 感状 次に合戦に参加した将士の戦功を賞するために出した文書を感状と云い、それにはこの書式をとったものが多い。地位の高い者から出した感状は、袖に花押を加えたものを出していることがある。通例はこの式の如く、日下に差出所を表しているもので…

充名が下級のものなので、「候也」で結んである

なお〔三七五〕に挙げたのは、応仁元年八月廿二日、武家が寺社本所領等から兵粮米を徴発するために出した催促状の一例で、東寺領山城下久世庄の名主沙汰人に充てたものである。充名が下級のものであるから、本文の書止めが何々「候也」で結んである。とのこ…

持氏の遺子安王丸の催促状

〔三七四〕は、持氏の遺子安王丸が、下総結城城に楯籠って、足利管領家の再興を計らんとして、陸奥の石川中務少輔を招いた催促状である。童名のみ書いてあって、署判がない。未だ元服以前で実名ができてをらず、従って花押も定まっていなかったからである。…

陸奥上遠野左近将監を招く軍勢催促の御教書

〔三七二〕は、康暦二(天授六)年七月十四日、関東管領足利氏満が、下野の小山義政を撃たんとして、味方の御家人に参陣を促すために出した文書の一例、遠く陸奥上遠野左近将監を招くために出したもので、〔三七三〕は、応永二十三年十二月、持氏が上杉禅秀…

足利尊氏、足利直義の参陣を促す文書

〔三七〇〕は延元元年二月、足利尊氏が京都にて戦敗れ、丹波に逃れ、この間豊後守護大友近江権守に参陣を促すために出した軍勢催促の御教書、〔三七一〕は、同年六月十日、足利直義が山門に拠った義貞等を攻めんがため、高雄山神護寺の衆徒に参陣を促すため…

新田義貞が鞍馬寺の衆徒を招くために出した御教書

〔三六九〕は同年六月廿三日、同じく義貞が比叡山にあって京都に進入せる尊氏等の軍勢を追討せんがために、洛北鞍馬寺の衆徒を招くために出した御教書である。当時戦乱の間、官賊何れの武将もかかる文書を多く出し、今に遺るものが少なくない。とのことです。

新田義貞の軍勢催促の御教書

〔三六八〕は、延元元年二月十九日、新田義貞が播磨に在陣中、西国に逃れ下った足利尊氏等を追撃しようとして、播磨にも所領を持っていた安芸国の吉川辰熊丸(實経)に参陣を促した軍勢催促の御教書である。この文書の料紙は、薄葉を小形に切ったものである…

軍勢催促状

第四種 催促状 次に武将は合戦の場合、軍勢に出陣を命令するために、この書式の文書を多く出している。前段に記した異国警固番役の催促状は又之に類するものである。出陣を促すために出す文書を軍勢催促状と云う。

薩摩国守護島津氏の代官酒匂本性

その後前述した異国警固番役は、この石築地を中心にして行われたものであった。石築地も年月を経ると破損を生じたので、随時之が修理を行った。右の文書は薩摩国の御家人延時三郎入道が、之を負担し、之が出来したので、同国守護島津氏の代官酒匂本性が、之…

異国襲来を防禦する石築地

又右に類する文書を守護の代官が出していることもある。 石築地修理事、三丈貳尺延時名分、被勤仕候了、恐々謹言、 正安四 八月廿六日 本性(花押) 延時三郎入道殿 文永十一年の蒙古襲来合戦に於ける経験の結果、翌々建治二年敵勢の上陸を防禦する為に博多…

肥前国御家人龍造寺小三郎にかんする文書

(略) この文書は、肥前国御家人龍造寺小三郎が、前記異国警固番役を勤仕したのに対して、同国守護北条時定から出した覆勘状である。大体前掲の大番役のものと同じ形式である。尚警固番役の一例を示すに、〔三六七〕は、永仁三年七月卅日、筑前守護少弐盛経…

左側に寄せて花押をすえる

中世に出来た書札礼の中に、かく名乗の左側に寄せて花押を加えるのは、その真下よりも、先方に敬意を表し、之に反して右側に寄せるのは、敬意を表さない礼儀であると説いているものもある。この文書は偶々折紙を用いた為に、かかる署判の位置となったもので…

薩摩国御家人成岡二郎宛の文書

この文書は、薩摩守護島津道佛忠時が、同国御家人成岡二郎が京都大番役を勤仕したので、之を確証する為に出した文書である。附年号が書いてある。之は差出者の加えたものである。図版は料紙の折ったままを現してある。ここに道佛の左横に花押の加えてある点…

薩摩守護島津道佛忠時の覆勘状

右の文書は課役に関する催促状とも申すべきであるが、この課役を勤仕したのに対して、守護の側から之を確証する為に出した文書がある。 に 守護番役覆勘状・課役請取状 京都大番役事、六箇月勤仕事終畢、於帰国者、可任意之状如件、 弘長四年 正月十三日 道…

文永十一年蒙古襲来合戦

次に守護人が直接事を伝える為に出した文書も伝わっている。左の図版に示したものはその一例である。 (略) この文書は、文永十一年蒙古襲来合戦後に於いて、前述した博多湾沿岸の異国警固番役の制規が変改されたが、豊後守護大友頼泰が之を筑後国の御家人…

異賊襲来を警戒

先づ敵船の襲来を発見するや、之を逸早く陸上に報告する為に、壱岐島から次々の島々に烽火を設けしめ、之が練習を行わんが為、その命令を肥前国大島にをった御家人大島又次郎に伝えた文書である。之に依ると壱岐島の烽火を大島にて見て之を次ぎ立て、鷹島に…