2021-11-01から1ヶ月間の記事一覧

打曇(うちぐもり)

次に三寶院に伝わる建武、康永、応永の大乗戒牒は、何れも打曇の鳥子を用いているが、天文廿年のものは通例の鳥子である。尚お文安元年の小乗戒牒は唐紙を用いている。成典の天延元年の戒牒は、未だその料紙を一見していない。とのことです。 ※打曇(うちぐ…

凡紙とは?

次に度縁戒牒の料紙を見るに、慶清の度縁も戒牒も何れも凡紙を用いている。次に圓爾の度縁は斐紙を用い、戒牒は斐紙で蝶の下絵を模様とした美しい料紙を用いている。慧廣の度縁は黄紙、戒牒は凡紙を用いている。とのことです。 凡紙とはどういう紙のことでし…

戒行事は朱印、戒目代は黒印

醍醐寺三寶院に、建武、康永、応永の大乗戒牒が数通伝わっているが、此等には何れも裏面に、戒を授けた師主と、戒目代と戒行事とが位署署判を加えている。中には上に示すが如く、戒行事と戒目代との署判は、文字花押共に版刻にしたものを以て捺している。蓋…

外印に代って延暦寺の寺印が捺してある

即ち〔二一三〕に挙げたのは、天延二年閏十月廿一日成典が受けた戒牒であるが、師主の自筆の証言が無く、座主以下同寺三綱が浄戒を授け之を永く公験となす旨を記している。而して俗別当の証判を欠いている。この戒牒には外印に代って延暦寺の寺印が十顆捺し…

永く公験となす

次に戒師義眞が特に直筆にて戒を授くる由を記し、之を永く公験となす旨を記している。次に別当藤原三守等が位署を加えて、公験たるべきことを証している。この戒牒には字面に外印が捺してある。以後大乗戒の戒牒は大体この形式であるが、細かい点では多少相…

圓珍の大乗戒の戒牒

次に大乗戒の戒牒を示すと左の如くである。 (略) この文書は、園城寺の開祖圓珍が、延暦寺一乗戒壇院にて大乗戒を受けた時の戒牒である。先に挙げた小乗戒のものと様式が全く相違している。この戒牒に於ては、始めに證誠として釈迦牟尼如来の佛菩薩を請じ…

沙門空海の小乗戒牒

然し東大寺戒壇院雑記に収めてある延暦十四年四月九日沙門空海の小乗戒牒は、先に挙げた慶清圓爾の小乗戒牒と全く相違し、ここに挙げた文安元年十月二十日附沙門宗忠の小乗戒牒と全く同式であるから、古くは空海宗忠の戒牒の如く小乗大乗相類似し、慶清圓爾…

室町時代小乗戒の戒牒は大乗戒の戒牒と類似

この小乗戒の戒牒は平安時代と鎌倉時代との間に、形式に大体相違は無いが、室町時代のものは、右のものと稍形式を異にしている。即ち〔二一二〕に挙げた醍醐寺三宝院にある沙門宗忠の戒牒がそれである。この形式は後に述べる大乗戒の戒牒の様式を取り入れて…

度縁と共に受ける小乗戒の戒牒

先に度縁のところに挙げた圓爾が、度縁と共に受けた小乗戒の戒牒が、東福寺文書の中にあるが、右に示したものと大体同じ形式である。但し沙彌某稽首和南大徳足下と記して竊以云々から改行していない。而して奥に位署を加えた人々が、僧名実名を書いた上に花…

「許」の字、実は同筆

即ち戒を受けんとする人から願出で之に対して許可の返事を加える形式の文書と見るべきものである。文中三箇所にある「慶清」は、何れも慶清の自署であり、十人の戒師の下に「許」とあるは、その人が各自筆を以て加うべきものであろう。本文とは異筆ではある…

伝戒師、戒壇堂達、綱所の所司、玄蕃寮、治部省の官人が登場する戒牒

右の文書の形式を見るに、興福寺の壹賢以下十師を伝戒師として挙げ、次に戒を受けんとする沙弥稽首和南から日附、その日下に署名を加えたところ迄で、戒を受けんとする意志を述べて之を戒師に乞う書式となり、次に伝戒師の筆頭一人并に戒壇堂達、綱所の所司…

度縁を受けた沙彌が受戒せるとき作る戒牒

次に戒牒とは、度縁を受けた沙彌が受戒せるとき作る公験である。 今戒牒の伝わるものに、東大寺戒壇院にて小乗戒を受けたものと、延暦寺戒壇院にて大乗戒を受けたものとの二様がある。次に図版に示すのは、先に図版として挙げた度縁を受けた慶清が、東大寺戒…

「天皇御璽」ではなく「皇帝官印」を捺した理由

次に圓爾の度縁に「天皇御璽」の内印を捺さず、「皇帝官印」の印を捺したのは、右に述べた如く、支那の人々にこの度縁を示すべき必要を予想した為めと思われる。古く大宝の儀制令を見るに、天子、祭祀所称、天皇、詔書所称、皇帝華夷所称云々とあるに基き、…

入宋入元するであろう僧の度縁

右両者の度縁が版刻であることは、度縁の本文が一定して変化を必要とせず、且つ一度に多数発行する事情に依るのであろう。然しここに注意すべきは、文書の差出者たる官人の位署が何れも支那の位官を記していることと、「天皇御璽」の内印にあらずして、「皇…

聖一国師の度縁

右に挙げた度縁は版刻であるが、他に伝わるものとしては、承久元年十月廿日附、圓爾(聖一国師)并に弘安九年十一月八日附、天岸慧廣(佛乗禅師)の度縁二通あり、何れも版刻である。然し此両通の形式は同じであるが、此等と先の慶清のものとは大いに形式が…

古文書と印刷との関係を知る貴重な史料、度縁

文書が版刻によって作られたことは実に異数と云わねばならない。今日遺存する古文書の中、この度縁を除き、特に近世以前、他の種類の文書で版刻のものは、殆んど存在しないようである。古文書と印刷との関係を知る上に極めて尊い資料と云わざるを得ない。従…

相当数多い人が一度に得度

鳥羽天皇の保安三年十月六日の太政官符で、度者一萬人を治部省に仰せて得度せしめるという勅旨が布達されたのである。慶清はこの勅旨に基いて康治二年四月に得度した一人である。保安三年から康治二年までは二十二年の長い歳月を距てている。この間に随時出…

版木によって摺写した度縁

この度縁は石清水八幡宮祠官田中家二代目の慶清という人が、康治二年十四歳で出家得度した時、治部省、玄蕃寮、并に僧綱所から授かったものである。奈良時代以来仏教は極めて盛んになったのであるから、平安時代以前からも度縁は多数作ったに相違ないのであ…

出家得度するときに必要な度縁

第三種 度縁・戒牒 出家得度する者は官省から公験の下附を受くるを要した。即ち之に依ってその人の出家せることを証拠立てるものであった。この文書を度縁と云う。人が出家すれば社会の絆から離れ、総べて公役を免除せらるるのであったから、私に出家するこ…

将来の研究に資する目的を以て便宜ここに収めておく

而してその書式を延喜式に依って知るのみで、実際の文書の伝わるものは遺っていないようである。唯僅かに管見に入ったものとして、東寺から同寺三綱の解任に関して出した解由状が一通あるから〔二〇七〕に挙げておく。この文書は案文と記してあるが、造東寺…

官人が交替するときに出される解由状

第二種 解由状 内外の官人、その任が満ちて交替するの時、新任の人から前司に任中事務の取扱上少しも懈怠の無かったことを書いて渡す文書を解由状と云い、若し事務の取扱上故障のあった時には解由状を出し得ざる理由を書いて出す文書を不與解由状と云う。前…

差文(さしぶみ)、差定(さじょう)とも云う

尚お社寺に於て仏事諸会の諸役を俗家に仰付ける為めに出す文書をも差文と称している。〔二〇五〕に挙げたのはその一例である。保元三年七月三日に、北野宮寺が、右近衛中将家を、八月五日の頭役に差定した時のものである。遥かに降って室町時代の末期に、延…

師守記にあらわれる差文

第一種 差文 臨時に諸役を奉仕せしめる必要があり、その役に当るべき者を差し定めたることを通達する為めに作る文書を差文と呼んでいる。 〔二〇四〕に挙げたのは、康永四(興国六)年七月廿九日、神祇官が止雨奉幣の為めに丹生貴布禰両社に発遣する使を差し…

上位の者から下位の者に逮ぶ雑公文

第六類 雑公文 上に説いた下文下知状の類の如き形式を明かに具えていない文書で、上位の者から下位の者に逮ぶ意味を持った文書がある。それは後項に説く書札式の文書、或は印判状と称すべきものの中に多数ある。然し尚おこれらの文書の形式を具えておらず、…

公式令では差出所の場所による礼儀の厚薄はない

元来公式令に様式を示した公文に於ては、一種の形式の文書に、その差出所を表す場所に依って、文書の受取者に対する礼儀の厚薄を示すというようなことは現われていない。然るに下文に至ると先づ袖判が現れ、之が更に日附の次行に於ける署判、その上下、或は…

第一式から第四式へと鄭重さが厚くなっている

然らばこの儀礼上に於ける意義の相違は如何と云うに、先づ第一式の変形文書は、下云々と書き出した下文と比較するに、両者同じく袖判を加えてはいるが、直接本人に与えた形式をとっているから、之よりも鄭重な意味を表している。次に第二式の変形文書は、第…

袖・奥上・奥下・日下の四式

以上列挙した下文の変形せる書式を具えた四式の文書は、その扱う内容は種々であり、その差出者如何に依って色々の名称を以て呼んでいる。その最も適当せると思われるものをとって、部類編に収むるところの各文書に表題として示した。この種々なる呼称からは…

漢の高祖の三箇条

扨て以上挙げた禁制の中、禁止事項を三箇条に表しているものがある。当時室町幕府奉行人の出した禁制が大抵この三箇条から成っている。この条数より余分のことがあると、付にして強いて三箇条に限っている。室町時代の中頃から現れた傾向である。その由来は…

備前内浦伊郡とは

更に〔二〇〇〕文明三年五月、応仁合戦に於ける西軍の大将山名宗全(持豊)が、京都蘆山寺及びその塔頭に出した禁制、〔二〇一〕永正三年八月、美濃守護土岐政房が、同国愚渓庵に下した禁制、〔二〇二〕天正十年三月、羽柴秀吉が、中国征討の際、備前内浦伊…

位署が日附の次行と日下では違いがある

先の文書は徳川家康から、軍勢が三河国小坂井八幡宮に対して濫妨狼藉を致すこと、境内の竹木を伐採すること、同宮に放火すること、以上三箇条を禁止する旨を示す為めに下したものである。前にも屡述べた禁制という文書は、かくの如く禁止事項を広く示す為め…