2023-06-01から1ヶ月間の記事一覧
御示覧とあるは、業長が夢想の告を受けたことで、之に依って神領を寄進したものである。翌々安元二年七月に安芸国司から右の寄進を承認せる旨を留守所に伝えている国司庁宣が、厳島神社所蔵文書の中にある。之に依って右の寄進の事情が判る。然し清盛の参詣…
先づ〔四五〇〕は、外記中原業長が民部大輔に送った書状、平清盛が厳島社に参詣せんとする風説を聞きてその実否を尋ね、且つ業長より同社に高田郡七箇郷を寄進せることを報じたものである。参詣と云い、寄進と云い、厳島社に関することであるから、この文書…
以上で図版に依る消息書状の解説を終え、次には部類編に、消息書状にして其体裁内容等注意すべきものを少しく挙げよう。固より内容に就いては、ここに充分紹介する余白がないから、極めて簡略に記すこととする。とのことです。
文体は当時に於ける消息文に漢文が交っている。ここに特色がある。又中山王の花押は、当時盛行していた明朝体即ち上下に平衡に二線を引き、その中間に画を収める形体を二重に積み上げた形式となている。之も明朝体に準ずべきものであろう。尚料紙は唐紙を用…
次に琉球国の書状を挙げて、図版に依る消息書状の紹介を終えることとする。 (略) 島津家には、室町時代中期からの琉球との関係文書が伝わっている。慶長十四年同氏が琉球を討って、之をその所管に帰せしめてからも、関係文書が多く伝わっている。右に挙げ…
因みに八月八日附家康の書状の附箋に、使者が笠の緒に縒り込んで持参したと書いてあるが、恐らく事実に相違があるように思われる。原本は何ら損じていない。この文書は合戦の後に、長政から広家に平穏に送致したか或いは手交わしたものであろう。附箋は当時…
切りさいた者は長政か或いは使者か判明しないが、兎に角切ったものを広家の許に送致した事は明瞭である。家康の書状をそのまま送致せず、更めて別の文書の裏面に書き、又その書状の料紙を数片に切断して送致したのは、恐らく当時畿内にあって西軍の将士の間…
長政はこの書状の裏に、上記家康の八月八日附の書状を写している。更にこの書状を検すると、料紙が縦に四片に切断してある。(此の文書を特に原寸にして図版第一三〇に示す、切目に注目せられたし。)この文書の下に張ってある附箋に、使者が関所を通るので…
この家康の返事を受けた長政は、之を早速広家に知らせるために、左の文書を広家に充てて送った。これが図版の中央にしめしたものである。羽蔵とは羽柴蔵人を略書し広家を指している。この文書の大意は、上記の家康の書状は広家の使者に見せ、本書は長政の手…
然るに輝元の一門である吉川蔵人広家は、入魂の間柄であった黒田甲斐守長政が、東国に下っていたので、長政に輝元のこの態度は、真実西軍諸将謀議に参画しての事でないことを告げ、この旨を家康に通達されんことを依頼した。長政からこの報知を受けた家康は…
次には文書の原形をそのままに保存することが如何に大切であるか、それをまざまざ知ることのできる一例を示そう。 ここに掲げた図版は、関ヶ原役に関した徳川家康并に黒田長政の書状である。慶長五年七月十七日安芸の毛利輝元は、大阪方の謀将等に誘われて大…
豊大閤真蹟集解説に依ると、慶長十二三年の頃のものであると云う。さすれば淀殿四十一二歳の折の筆蹟っだる。料紙は檀紙、折紙に調えてある。先に挙げた秀吉うえの書状ももとは折紙である。図版に見る如く、上下両段になっているのは、表装するときに折目を…
秀吉の仮名文を挙げた続きに、先に挙げた女子の仮名文とは少しく趣を異にした一例を示そう。 (略) この文書は、秀吉の側室淀殿浅井氏が、その妹婿京極高次に充てたものである。高次の来訪を謝し、又秀頼始め淀殿にも高次から度々音信を送れるを謝する為に…
秀吉の自筆の書状は、書礼になづまぬ特殊な文書と考うべきものでなく、寧ろ書礼の根本義を考うべき点に於いても、実に貴い資料であると信ずる。何れの点から見るも、秀吉の自筆書状は、その天真の性格の現れているところに真価があるのであって、之に依って…
然し、秀吉とも云うべき人が区々たる書礼に拘ることなく、思のままに筆の走るに任せ仮名で書いたと云えば、それまでであるが、それにしても書礼にはづれていなかったこと丈は事実であった。即ち自然のままが書礼であって、書礼がもともと書札の文字に表す自…
秀吉自ら公事料年貢等を請取った証文として出した請取状の如き、僅かの文句で然も極りきった文章を態々仮字で書いている。これは大抵天正十三年以後からのもので、秀吉の地位が高まって来た時のものであるから、それを全文自筆で漢字で書くのは勿体ない次第…
従って秀吉の教養が向上していようが、或いは相変わらずであっても、何れにしても秀吉が自筆で書くものに、専ら仮字を用いたことは、その向上出世が事実である以上、誠に当然の書礼に遵っていたと見るべきである。とのことです。
然るに、秀吉が立身出世して関白となり太閤と称されるに及んでは、立身に伴ってよし多少文筆に素養が高まっても、自筆で書く消息を漢字で書くのが男子の通例として、之を漢字で書いたならば、前々から仮名で書いていた関係上、書儀の上から秀吉自ら格下げを…
かような次第であるから、秀吉が未だ信長の従臣として活動していた頃、仮名を以て書き表した書札を諸方面に出していたのは、身分が低い時であったから、例を厚くした遣方では無かったのである。然しその代わりに自筆を以て認めるという点に礼を尽くすところ…
然るに文書の礼儀に於いて女子に充てたもの、若しくは女子から出した書状は別として、男子が男子に充てて出した書札で、それを仮名を以て書き表すことは、先方を敬わない書儀であった。漢字で書くことと仮名で書くことの間に儀礼上の厚薄が考えられていたの…
次に秀吉の自筆書状は、殆ど仮名を以て書いてあるが、之は秀吉が文筆の素養に欠けていたからであると云われている。成る程戦国時代、下賤の身分から成上った人であるから、充分な教養を具えていなかったことは申す迄もない。従って日常自筆にて認める文書も…
其筆蹟に一種の風趣を持ち、その文章は如何にも率直に書き表し、書風と文章と相調和して、秀吉の性格を如実に見るが如き感を抱かしめる。秀吉の偉大なる人物であるが為は勿論であるが、又一面かかる書蹟としての風格が、この種自筆の書状を多数後世に伝えた…
この書状は秀吉が関東小田原陣中から、京都にあった生母天瑞院に充てたものである。小田原攻囲の状況を報じ、老母に対し陣中遥々心遣を表した文が大方を占めている。秀吉の自筆書状は大体この書状の如く、仮名に漢字を交えたものである。とのことです。
更に豊臣秀吉の自筆の書状は多く伝わっている。今その一例を示すと図版の如きものがある。 (略) 豊臣秀吉の書状以下自筆にて書いたものが、東京帝国大学史料編纂所にて編輯発刊した「豊大閤真蹟集」に悉く網羅してあるが、其の数実に百十三点に及び、其の…
之から更に一歩進んで、「端書無之候」と袖に書いて、わざわざ追而書は書きませんでしたと鄭寧に断っているものもある。以上は全国一般に行われていたが、端書無之候は概して東国地方の人々の書状に多いようである。而してかような文言の現れてくるのは、戦…
追而書は右の袖に書き、ここに書き終わらないので、本文の行間に及んでいる。之を行間書と申す。この追而書の終わりに以上とあるのは、追而書を一通り書き、之で文章は全部である意味を示したのである。追而書を袖に書く慣習から、追而書として書くべきもの…
陣中にある輝虎が、郷国にある子弟の教育に如何に心を寄せていたか、武将にして而も優しい心根が現れている。輝虎の人となりを見るべき、実に貴重な資料と申すべきである。いろはは、輝虎が顕景に与えたものと伝えている手本である。とのことです。
顕景が、戦勝祈念の守札、その印として社寺から捧げた巻数を贈って来たので、輝虎はその厚意を謝し、且つその音問の書札を見て、益々手跡の上達したことを褒め、尚習字に精を入れるように手本を贈った由を告げている。とのことです。
旱虎の旱は輝の充字である。景勝は当時喜平次顕景と称していた。実父は政景と云い、母は為景の女即ち輝虎の姉であった。この関係から後輝虎が顕景を養嗣子として名を景勝と改めしめた。この頃は未だ父子の関係はなかったが、親族の間柄としてかくの如き音信…