2024-11-01から1ヶ月間の記事一覧
終りにこの書式の中本文書止めに「恐惶謹言」と書いたものに〔五八二〕の如きがある。之は(天正九年)二月廿三日、武田勝頼が祖父信虎の七年忌の仏事を修せんとし、これが導師として信濃岩村田龍雲寺の北高(全祝)を招いたのであるが、その病気のため参府…
宗麟に次いでこの長政父子を始め細川忠興、その子忠利、立花宗茂等何れもローマ字の印を用いたが、宗麟のものが形様最も立派で、他のものは概して小形のものであった。ローマ字の印は小形であることが一つの特色とすることができる。宗麟の子義統も印を用い…
なおこの書式の文書で、ローマ字の印を捺した文書の例を図版に示すと、 (略) の如きがある。筑前福岡の黒田長政が、同国太宰府天満宮別当鳥居信岩に送った書状である。信岩の千鳥貝の贈進を謝し、その子息を引見しその立派に成人せることを祝するために出…
大友氏は勿論、九州地方に於ける諸大名の印の中であは宗麟のものが最も注目に値する。宗麟は右の如く数種の印を用いたが、何れも併用した事実は無い。始めの二種は印文は漢字で、之には南蛮文化の色彩が無いが、その文字の字体と印全体の模様とが、東国地方…
宗麟の子義統は、殆ど印を用いていない。唯天正十三年に一種の印を用いている。それを捺した文書の一例が〔五八一〕である。同年九月六日、由布美作入道が戸次道雪に従って軍忠を抽でたのを賞するために出した感状である。義統の名字の下に方一寸八分の大き…
〔五八〇〕に挙げた文書はその一例である。印文 J は、Jesus. H はHominum. S は Salvator の各頭字であって、即ち「人類の救世主耶蘇」の意味を表現したものである。なお肥後人吉の相良家文書の中に、天正年間当時吉利支丹の伝道師とし渡来した備慈多道留と…
次に同じ印文を正圓単郭の中に収めたものを用いている。「非」の印文は、恐らく宗麟が三非齋と号していたからであろう。それから前掲図版に示した文書に捺した印を用いたのである。なおこの印を捺した一例を示すと、〔五七九〕の如きがある。(天正八年)四…
宗麟の称号圓齋の下に捺してある印は、重郭正圓径九分八厘、印文に「FRCO」即ち宗麟の切利支丹宗徒としての名前 francisco を略して表してある。 宗麟が印を用い始めたのは、右の文書よりも遡り天正四年の文書に、先づ正圓で外郭の太い重郭の中に、「非」の…
豊後の大友宗麟(義鎮)は之の形式の文書を多く出している。上に示す図版はその一例である。 この文書は、宗麟がその家臣荒木伝兵衛尉が、田原親家のその所領豊後安岐郷に入部以来親家に対して尽くせる功労を謝し、更に親家に対して叛くものあり、これが親家…
更に〔五七七〕に挙げたのは、(文禄二年)二月廿八日、秀吉が関東小弓御所足利義明の子頼淳に充てた書状である。秀吉が頼淳の子国朝を古河公方義氏の継嗣としたのであるが、国朝は文禄二年秀吉の肥前名護屋の陣営に加わろうとして出発したが、途中安芸国に…
なおこの類に入るべきものとして、〔五七六〕の如きものもある。之は越前の朝倉義景が同国劍宮の別当織田寺玉蔵坊に、年頭祈祷の巻数等を送ったのに対して答えた書状である。義景の下に縦一寸六分五厘、横一寸四分ある鼎形の実に立派な黒印が捺して有る。こ…
遠江に於ける合戦とは、文中寒天廿一日附のものとなるが、信玄は之より先四月十二日信濃駒場の陣中で没しているから、信玄に仮託して出したものとなる。追而書に病気が恢復しないので直判即ち花押を加えることが出来ないと書いてあるのは、実は死没を偽って…
なおこの例に入る文書を示すと左の如きものがある。 (略) この文書は、武田信玄が小田原北条氏の家臣大藤與七に送った書状である。與七の父式部丞政信は北条氏が武田氏に加勢するために送った者であるが、武田氏のために遠江に於いて戦没したので、其勲功…
更に本文書止めに「恐々謹言」と書いた例を挙げると、次の如きものがある。 (略) この文書は差出所に岡とあってその下に「郡」の一字を印文とした黒印が捺してあり、一見したところでは何人の出したものか判然としない。然し右筆の点から北条氏綱が越後の…
〔五七五〕は秀吉が天正十八年四月四日、小田原征伐の時、箱根山中の陣所から京都本願寺にその見舞を謝すると共に、山中城攻略(文中に「足柄の城」の文言あり)并に小田原城包囲の状況を詳細に知らした文書であって、この部類に入るべき書式のものである。…
(略) この文書は信長が越後の謙信を伐つために、出羽米沢の伊達輝宗をして本庄繁長と共に謙信の背後より之を脅かすことを促すために出したものである。信長の字面に二頭の降り龍で囲んだ天下布武の朱印が捺してある。この部類に入るべき朱印状である。料紙…
次に本文書止めに、「謹言」と書いてあるものを挙げると、〔五七四〕はその一例で、年代は可成り早く明応五年四月五日、越後の長尾能景が三潴孫右衛門(尉)と云う者に出した書状であって、名の下に「信」の一字を印文とした黒印が捺してある。これは当時能…
次に本文書止めに「如件」と書いているものを挙げると、〔五七三〕の如き、(元亀二年)正月二日、信長が木下秀吉に近江姉川より朝妻の間、北国から大坂に向かう諸商人等の通行を禁止するために出したものがある。例の朱印が捺してある。充所の敬語が「との…
〔五七二〕は筑前福岡の黒田長政の出した一例である。之に捺してある印は、黒印で、印文が Simeon Josui とローマ字で表してあるから、その父如水(孝高)のものを襲用していたのである。父子印を襲用することは既に東国地方の諸大名に見るところであったが…
この書式の印判状は、先づ信長のものから著しくなり、秀吉も之に倣って出したのであるが、その地位が向上すると、名字を欠いて印のみを捺したものを出すようになった。ここに於いて差出所は、全く印のみに依って表されるに至ったのである。この類の印判状は…
り式 日附が月日から成り、差出所名印、充所を具えたもの この部類に入るものは可成多数伝わっている。今之を例の如く本文書止めに依って次第してみると左の如くである。 先づ書礼の礼儀の薄いものから挙げる。 本文書止めに「何々也」とかいたもの。〔五七…
なお地名を書いた上に印を捺した実例として、〔五六九〕の如きがある。これは天正十七年四月五日、薩摩島津義久が、琉球国王に書状を遣わし、それと共に禮物として杉原紙百帖を送った目録である。本文に之を注文と称している。日附の下に「鹿兒島」とその居…
日下に「山木」とあるは、伊豆の山木で、この婦人の居所或いは知行地と思われる。日附の字面に猪を画き、下部に印文「軍勝」とある、実に立派な印判が捺してある。日附の「み」た丁巳即ち弘治三年に当たる。当時婦人にしいて印判を用いていた者が少なくない…
なおこの形式の印判状で婦人の出した左の如きものがある。 (略) この文書は北条氏康の妹にして、伊豆の堀越六郎貞基に嫁した婦人山木御方と呼んだ人の出した印判状である。(静岡県史料第一輯に依る。)亡父六郎の供養料として、氏康の許を得て伊豆賀古岩…
差出所「小山田」とある下に、「夕定」の二字を印文とした単郭方形の朱印が捺してある。料紙に折紙を用いたために差出所を日附より右に寄せて書いたのであろう。とのことです。〔五六八〕は天正十四年二月廿九日、相模玉縄城主北条氏勝が、鈴木又右衛門尉と…
ち式 日附が年月日から成り、差出所氏と印若しくは居所印、充所を具えたもの 以上は差出所に実名、道号若しくは氏仮名を記したものであるが、なお氏のみ、若しくは居城の名のみを表して印を捺したものもある。〔五六七〕は、甲斐郡内の小山田信茂が、甲斐国…
と式 日附が十二支月日から成り、差出所苗字と印若しくは居所印、充所を具えたもの この形式は、〔五六六〕に挙げた文書に見えるもの、この印判状は、慶長十六年十月十五日江戸幕府の奉行彦坂九郎兵衛元正が、駿河由比郷の民郷右衛門に、鑑札なき行商禁止の…
なおこの部類に入る印判状としては、〔五六五〕に挙げた、文禄五(慶長元)年四月、佐竹義憲が、領内の検地を行い、更めて社寺に所領を寄せた時の手形がある。佐竹又七郎と苗字仮名を書いた下に、方形、三重郭、印文「佐竹」とある黒印が捺してある。とのこ…
家康の朱印の掟と同様各駅に下したことは勿論である。之と相並んで伝馬資料として重要なものと云うことができる。忠次の黒印は正圓重郭、印文中に「龍福」とその左右に「寶吉」とあり、元正のものは、八角重郭印文が稍々明らかでないが、なかに「厳密」と、…
へ式 日附が年月日から成り、差出所苗字仮名印、充所を具えたもの 次の図版に示したものがこの部類の一例である。 此印判状は、先に挙げた徳川家康が慶長六年正月東海道五十三駅にだした伝馬朱印の掟書と同時に、家康の奉行伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の…