〔五七五〕は秀吉が天正十八年四月四日、小田原征伐の時、箱根山中の陣所から京都本願寺にその見舞を謝すると共に、山中城攻略(文中に「足柄の城」の文言あり)并に小田原城包囲の状況を詳細に知らした文書であって、この部類に入るべき書式のものである。当時秀吉から朱印を捺して出す文書には、「謹言」の敬語を付けるのは頗る稀であるが、之は本願寺に対して他に異なって鄭重さを表していると見るべきである。先に述べた如く、天正十六年同じ本願寺に出した朱印状は、差出所が印のみで、書止めを「恐々謹言」と記している。差出所に「秀吉」の二字を加え、書止めから「恐々」の二字を引いたこととなっている。これで前後の書礼が一致したものと見える。とのことです。