2024-01-01から1年間の記事一覧

信玄・勝頼を通じても三通りの変化があったに過ぎない

それから弘治二年六月から信玄の卒去した天正元年四月迄、又次代の勝頼が滅亡した天正十年迄、引継きこの龍の朱印は、武田家の家印として使用していた。然し弘治二年六月以後のものは、皆悉く同型であって、数多い文書に捺した印形を如何に子細に対比しても…

武田信玄の印判状の龍の頭は随時向上したのではない

それはこの図版の印の方が、龍の頭がうは向になっているが、天文十二年以後改めたものは、龍頭が幾分下方に向かっている。叱らばこの両型の印が何時変わったかと調べて見ると、弘治元年十二月と翌二年六月との間に改刻したことが判る。従って龍の形に於いて…

正圓の中に昇龍の形を書いた武田信玄の印判

信玄の文書に印の現れたのは、その治国の最初からで天文十年に始まる。その時の印は、正圓の中に昇龍の形を書いたもので、その龍の頭は全然直立している。この印を用いた期間は極めて短く、既に天文十二年の文書には最初のものを改めて、別個の印を捺してい…

従来信玄の勢力の向上と、龍の頭の上昇とが歩調を合わせるとされてきた

扨て書出しに捺してある龍の朱印は、径二寸一分正圓重郭で、中に昇龍の形像が表してある。この昇龍の形像には年代に依って変化があり、信玄の勢力が向上するに伴って、龍の頭が漸次上昇しているもののように、従来説かれている。この説明に依ると、随時印を…

奉ずる人々が名判を加えたものが少ない奉書式印判状

武田家の奉書式印判状は、極めて多く伝わっているが、名判を加えたものは一通もなく、名字と仮名或いは官途若しくは受領を書いて、その傍に奉之と附記するのが通例となっている。今川武田両家に限らず、一般から見て奉ずる人々が名判を加えたものは極めて少…

同じ奉者式の印判状でも細かい点で大分相違がある

本文書出しを見ると、そこに印が捺してある。これが直状奉書式の武田家の印判状にも屡捺してある龍の朱印である。次に日附の下を見ると、跡部釣閑齋が、之を奉ると書いてある。前に説いた今川家の印判状には、奉行の名判が加えてあったが、之にはそれが無く…

戦国時代の交通史に関する重要な文書

第七条は棠澤郷の宿駅が、北条氏の領内に接近しているところから定めたものである。この頃右と同様の掟書を駿河国中の各宿郷に出したものと見え、天正三年に庵原郡蒲原の伝馬衆に、同四年に棠澤の外に、駿東郡沼津、富士郡厚原、根原の各郷に出したものが伝…

駿河駿東郡棠(ぐみ)澤郷に下した伝馬の掟書

次に武田氏のこの部類に入る印判状を挙げよう。 (略) この文書は、甲斐の武田氏から、駿河駿東郡棠(ぐみ)澤郷に下した伝馬の掟書である。棠澤は今の御殿場町の附近の一郷である。伝馬を仕立てしむる証文たる手形に、公用無賃のものは印判を二つ、私用有…

清断奉行とは今川家で訴訟を裁決する任に当たった奉行のこと

尚奉行人の肩書に清断奉行とあるは、注意すべき文言で、当時今川家では訴訟を裁決する任に当たった者をかように呼んでいたのである。訴訟制度の珍しい史料ともなる。かかる奉行の奉じた印判状も多く出たのであろうが、今日残るものは僅かにこの一通に過ぎな…

奉書式印判状の定まった一の書式

本書書出しに既に説いた義元の実名を印文とした方形の朱印が捺してある。日附の下と次行に、肩書に清断奉行と記した奉行両名が名判を加えている。かように奉行が差し出す形式になっていて、袖に義元の印がある。之が奉書式印判状の定まった一の書式である。…

今川家の袖捺印印判状

第二式 袖捺印印判状 これも日附差出所充所が種々変わっている。その相違に依って順次挙げると、先づ、 い式 日附が年月日から成り、充所を具えたもの この種類の印判状の初見は、〔四八七〕に挙げた天文十八年八月七日附、今川家の印判状である。駿河浅服六…

他に類を見ない「奉」を名の肩に付けた文書

又奉者が下附の文字「奉」を名の肩に付けているのは、他に類のない書き方である。芳春院は永禄四年に没した義氏の生母晴氏室(北条氏綱女)の院号であるから、この院に住した僧侶が、義氏の命を承けて朱印状を出していたと思われる。 以上にて、印を日附の行…

古河公方足利義氏の二種の印を重ねて捺した珍しい印判状

〔四ハ六〕もこの部類に入る可き印判状で、天正三年三月十八日、古河公方足利義氏が、福田民部丞に、その勢力範囲内の地域に於いて、荷物五駄の諸役を免除する為に出したもので、日附に義氏の朱印が二つ重ねて捺してある。一つは径一寸一分五厘、正圓三重郭…

重郭正圓、上部に鍵形のある上杉家の印

日附の上部に捺した印は、重郭正圓、上部に鍵形の如きものが付き、郭内に「摩利支天、千手、勝軍地蔵」の三名号を配列して、鍵形から下部迄の長さ一寸六分、圓の径は一寸四分ある朱印である。この印は謙信の元亀元年頃の文書に捺したものから始まり、景勝が…

上杉景勝が豊臣秀吉の命を受け分国中の升を京升に統一

〔四八五〕に挙げたものは、天正十九年八月、景勝が豊臣秀吉の命を受け、分国中の升を京升に一定する掟を示す為に出した印判状である。秀吉の命令に依って、従来区々であった度量衡関係の事柄が、全国的に統一された事実をしることができる。とのことです。

北条家の虎ノ印判に対抗したと思われる上杉家の獅子の印判

印は日附の上部に捺してある。この印は朱印、上部は獅子の画で、印文は地帝妙の三字から成っている。地蔵菩薩、帝釈天、妙見菩薩の各名号の頭字をとったのである。先に記した如く、景虎が永禄三年上杉家の勢力回復の為、始めて関東に出陣した時、武蔵相模両…

特色が現れている上杉家の奉書式印判状の奉者の表し方

印判状を奉じている直江実綱、河田長親の両人は名判を加えている。この点前項の上杉家の奉書式印判状と同様である。大体、上杉家の奉書式印判状に於ける奉者の表し方は、直江兼続の奉じたものの外は、奉行中と記すか、若しくは右の如き表し方となっている。…

地方の大名領内の徳政史料

は式 日附が年月日から成り、充所を具えないもの 左に挙ぐる図版は、この部類に入る印判状である。 この文書は、長尾景虎(謙信)が、越後上田庄妻有庄藪神が水損に依り、地下人が困窮するので、徳政即ち貸借の契約を無効にする掟を敷いて、之を救済する為に…

酷似している今川義元と大道寺政繁の印判

年附は無いが、恐らく天正十年前後のものであろう。当時の訴訟の制規が窺われる。日下に朱印が捺してある。ところがこの印が、駿河の今川義元の「義元」の二字を印文にしたものと酷似していて、従来之を義元のものと見做していたが、仔細に観ると明らかに相…

日附が月日から成り、充所を具えた印判状

ろ式 日附が月日から成り、充所を具えたもの 之に属する例は余り多くない。〔四八四〕に挙げたものはあその一例である。鎌倉の代官で北条氏の老臣である大道寺政繁が、鎌倉郡山ノ内の町人百姓が出した小泉藤右衛門の屋敷の棟別銭に関する訴状を受理し、之を…

慶長五年頃、奉書式の印判状の終焉

本文書止めに「何々也」とあるは、家康の地位の高いことを示している。大久保長安が奉じ、日下に「忠恕」の朱印が捺してある。家康も武田北条家の如く、かかる奉書式の印判状を天正年代殊に十年以後多く出しているが、今ここに挙げた慶長五年頃のものが、大…

書止めが「何々也」の徳川家康朱印状

以上挙げた印判状は、本文書止めが何れも「如件」となっているが、「何々也」となっているものもある。〔四八三〕はその一例で、慶長五年十月二日、徳川家康が、信濃木曽の山村道祐を木曽谷の代官に任じ、その山林の管理を任せる為に出した朱印状である。と…

北条氏の奉者の書き方と同じになっている下総臼井氏の印判状

以上干支十二支を年附に記した例として挙げた印判状の中、北条氏のものが、奉者の書き方に、その流儀に従っているのは当然であるが、下総臼井氏のものとそれと同じになっている、同氏は当時北条氏の配下に属していたのであるから、又当然のことと云うべきで…

物資の内容により軽重が生じた過所

伝馬手形と類似した文書である過所には、古く室町幕府等に於いては、特別な印判を用いた。北条氏に於いても過所の手判というものがあったが、平素物資を運送する人馬には、通例の如く、虎ノ印判を捺した過所を出している。過所と認むべき文書の形式には、伝…

伝馬手形には、干支もしくは十二支を記載するのを通例とした

北条氏の伝馬手形は、必ずしも日附に十二支のみを記すとは限らず、干支を載せたものもあったが、通例の如く元号を年附にしたものは一通も無い。総じてかかる手形には元号を付せず、干支若しくは十二支を記載するを通例としていた。とのことです。

北条氏、武田氏、徳川氏の伝馬手形

北条氏の伝馬手形には、初め虎ノ印判を他の印判状と同様に捺したけれども、永禄元年の手形に、ここに示した如き専用のものを用いるに至った。武田氏も最初は家印たる龍の朱印を用いていたが、後には「傳馬」の二字を印文とする印判を用いた。徳川氏は家康の…

北条氏、上部に馬の画がある印文「常調」の伝馬手形

この種の手形の実物は戦国時代から伝わっている。諸大名の奉行が花押を据えて発した手形もあるが、この図版の如く印判を捺したものが多い。この手形の朱印の形状は、上部に馬の画を、下部に印文「常調」の二字を配し、高さ二寸五分横一寸八分ある。馬を常に…

宿送りの手形

この文書は、伝馬手形、或いは伝馬ノ朱印、或いは又宿送ノ手形などとも称した。この文書によって宿継ぎに人足伝馬を仕立てて奉仕するから、宿送りの手形とも云ったのであろう。この文書の用紙は、文面が簡単であるから、細長く切った紙を用いているが、中に…

北条氏分国内の一里は六町一里と推定される

この伝馬手形は、北条氏が相模高座郡當麻宿の年寄関山氏に下したものである。この手形を持参して、小泉から當麻までの宿駅をして、伝馬一疋を仕立しめることができた。一里一銭と云うのは、一里に付一銭の割合の伝馬賃と申すことで、除くとは之を免除する意…

内容の特殊な文書である伝馬手形

尚内容の特殊な文書である伝馬の手形の中に、この例に入るべきものがある。今その一例を図版に示す。 傳馬壱疋可出之、関山▢被下、可除一里一銭者也、仍如件、 丑 奉之 三月十五日 宗悦 小泉より 當麻迄宿中