2024-01-01から1年間の記事一覧

里見家、南方の朱鳥から小田原の白虎に対して東方の青龍に変えたか

尚憶測に過ぎないが、里見家の鳥は安房が関東の南方であるところから、方位相応の南方の朱鳥を表したものであり、後之を龍に変えたのは、関東西方の雄藩小田原に対して、房総地方は東方であるところから、小田原北条氏の虎ノ印判を西方の白虎に見立てて、自…

里見氏の特徴である籠字形の印文

次いで義康も、右の図版に見る如く、義継と同じ形式のものを用いている。この後義康は、上部の龍を除いた「義康」の実名のみを印文としたものを用いている。尚里見家の老臣正木時茂は、上部に獅子下部にその実名「時茂」の二字を配した印を用いている。 此等…

安房の里見義康の寺領安堵の印判状

(略) この文書は、安房の里見義康が、同国小松寺の寺領に対する正木安芸守の違乱を止めて、元の如く同寺領として安堵する為に出したものである。 日下に龍を画いた下に「義康」の二字を配した朱印が捺してある。里見氏の印は、永禄の末年上部に鳥を書き下…

女性の出した印判状

尚婦人の方から出した印判状は、後項に図版を掲げて説明してあるが、ここに少しく特別な事情から、差出者側に婦人の関係した印判状の一例を挙げる。〔五一六〕は、天正六年八月吉日附の印判状で、日下に方形重郭印文「親隆」とある黒印が捺してある。親隆は…

印判状に於いても女性充ての文書は仮名で書くことがあった

それがここに至って復興するを得たのである。この赦免の印判状が、家成の母に充てて出されたのは、この人がその復興を発起して大いに尽力したからであろう。そこで婦人に充てた文書であるが為に、本文を仮名に書き表したのである。御教書類が婦人充である時…

三河国の一向宗一揆

〔五一五〕は、同じく福徳の朱印を捺した印判状の一例で、天正十一年十二月丗日、徳川家康が石川日向守家成の母妙西に、家康の領内に於いて一向宗徒再興を許せる旨を伝えたものである。永禄六年から同七年にかけて、三河国に一向宗一揆が起こり、大いに家康…

封紙を具えているものが少ない印判状

印判状の今に伝わるもので、其封紙を具えてくるものは少ない。従ってその形状が如何であったか、古い時のものは殆ど明らかでないと云ってよい。然るに右に挙げた福徳の印判状には、幸いにこの封紙が伝わっている。之を見ると、紙質は本紙と同じであり、封の…

今川氏の印の影響を蒙った家康の印

而してこの福徳の朱印は文禄の初頭迄用い、壺形の黒印は慶長三年頃迄用いている。この次に新に用いた印が、印文「忠恕」とある朱黒両印である。福徳の朱印と天正年間に於ける二種の伝馬手形の印は、恐らく今川氏の印の影響を蒙って作ったものであろう。形状…

永禄末年から「福徳」朱印、天正十三年から「無悔無損」黒印

日附の上部に捺してある印は、径一寸九分、印文「福徳」とある朱印である。これは家康が始めて用いた印で、永禄末年の文書から現れている。天正年間になると、この福徳の印以外に、前述の如く、伝馬手形専用の印も併用していたが、天正十三年から後には、壺…

奇瑞があったため徳川家康が駿河浅間宮に出した印判状

日附の字面に朱印が捺してある、氏郡(邦か)は永禄七年頃から、虎ノ印判に倣って、上部に動物を下部に印文四字を配した朱印を用いたが、永禄十二年から之を廃して、上部に二匹の象の形像を、下部に印文「翕利招福」の四字を配した朱印を用いた。右の印判状…

北条氏邦の受領名を称することを許すための印判状

〔五一四〕は、北条氏康の子で、武蔵鉢形の城主となった氏郡(邦か)が、天正十六年正月三日、家臣齋藤山城守に、山城守と云う受領名を称することを許す為に出した印判状である。かかる文書が諸大名の判物の一種として出したことは既に述べたが、印判状が盛…

北條氏の民政に関する重要史料

〔五一三〕に挙げたのは、先に掲げた虎ノ印判状と同じ形式のもので、天文十九年北条氏康が、領内郷村の窮亡を救済せんとして公事を赦免する為に出したもので、今日に至るも諸所に伝わっている。之に依って当時に於ける郷村の貢租、并にその徴収の状況を窺う…

北條氏一族や老臣のもの数えると三十種もの印判を用いていた

北條氏は虎ノ印判にも印を用い、その一族や老臣のものをも数え立てると、三十種にも達する程である。東国地方に於ける大名の印判史上重要な地位を占めている。その中で最も重要なものはこの虎ノ印判であって、北条氏の民政に関する貴重な史料となるべきもの…

氏康の時代に改刻、古いものは虎の面貌と毛並が細密

かように長い間用いたのであるから、同じ形のものでも年代に依る相違が現れているや否、仔細に之を観察すると大体氏康の時代、弘治の末年から永禄の初頭にかけた間の或時に改刻したものと見え、この時期の前後に依って、形状に多少の相違が現れている。その…

四代七十三年間使用された他に類のない北条氏の虎ノ印判

従来虎ノ印判の初見は、この最勝院の永正十七年の禁制であったが、近時田方郡木負(きしょう)村に伝わった文書の中に永正十五年の文書に捺したものが現れた。永正十五年は北条氏の初代長氏(早雲庵宗瑞)の存生中であるが、長氏はその頃既に家督を氏綱に譲…

有名な北条氏の虎ノ印判「禄壽應穏」

第三式 日附行捺印印判状 この部類の印判状にも、先づ、 い式 日附が年月日から成り、充所を具えたものがあり、左に示す印判状はその一例である。 (略) この文書は、北条氏が伊豆田方郡大見郷の最勝院(田方郡大見村)の寺中に出した禁制である。日附の下…

西班牙国セビヤー市印度文書館の所蔵する徳川秀忠の朱印状

この秀忠の印は、国内に出した文書には、一切見えていない。恐らく海外関係の文書に専ら用いたものであろう。後に挙げた〔図版第一八二〕、慶長十五年秀忠から西班牙国主に贈った書状に、この「源秀忠」の朱印を捺している。而してこの文書は、今もとの西班…

家康に倣った秀忠の「源秀忠」印文の朱印状

尚元和以後秀忠から同様の朱印状を出したが、家康のものの多く伝わっているのに反して、本書は今日に至って一通も伝わっていない。唯後世近藤正斎の編輯した外交関係の文書集外蕃通書の中に、其模写が収めてあるを知るのみである。秀忠の朱印状に捺した印は…

広東附近と推定される西洋渡航の朱印状を受けた角倉了以

先に礼紙と申したのは、上包のことで、その上に更に杉原で整えた包紙があたのである。然しこれは今伝わっていないもののようである。尚ここに挙げてある渡航地西洋は、勿論今日云う西洋諸国のことではない。呂宋、民答那峨(ミンダナオ)、摩鹿加(モルッカ…

覚書の記文に依って朱印状の体裁がよく判る

尚本紙と礼紙の端裏の筆跡は、何れも同筆である。即ち右筆が覚の記文を書いて、出願者に渡したものと考えられる。尤もこの礼紙は今伝わるものに悉く備わっているのでは無く、散逸したものもある。 前記右筆の中、元佶の扱かったものは異国御朱印帳、崇傳のも…

金地院の取り扱い以後は正月十一日と九月九日に限った南洋渡航許可朱印状

朱印状の筆者は慶長九年から十二年迄は、豊臣秀吉の外交文書の右筆豊光寺承兌であったが、同十三年から圓光寺元佶、同十七年から金地院崇傳と順次変わっている。慶長十二年以前は通例の文書の如く、日附は下附の当日を記していたが、金地院の取り扱い以後は…

船本彌七郎が拝領した徳川幕府の朱印状

近世の初頭慶長年間盛んに南洋方面に貿易に赴くものがあり、此等の人々が徳川幕府から受けた朱印状にして今に伝わっているものが少なくない。それらは皆右の図版に挙げた者と、大体同文、料紙は大高檀紙本紙と礼紙と二葉を用いている。この礼紙には、端裏に…

南洋方面渡航許可の朱印状

古く西国諸大名が朝鮮と貿易するに当たり、その使者は李朝から与えられた図書を捺した文書を持参し、之に依って身元が確証せられた。室町幕府は明国から貿易の勘合符を受けていた。又島津氏の領民が琉球に貿易の為に渡航する為に、領主から許可の朱印状を受…

徳川家康の安南国渡航を許す朱印状

(略) この朱印状は徳川家康が、安南国に貿易の目的を以って赴く者に、その渡航を許す為に出した文書である。之に依って公許を得たる貿易渡航者として、その身元が確かまり、海路故障なく目的地に達することができたのである。とのことです。

将軍の実名を印文に用いている江戸幕府の朱印状

ろ式 日附が年月日から成り、充所を具えないものもある、江戸幕府の朱印状が多く之である。その一例として〔五一一〕の如きがある。これは天和二年将軍綱吉が、駿河富士郡今泉村の農民五郎右衛門の孝行を表彰する為に、之に田畑を与えた時の朱印状で、印文「…

印文「天下布武」の馬蹄形の朱印

之に依って当時に於ける城下町の状況がわかる。日附の次行の上部に、「天下布武」の四字を、降龍二頭を以て囲んだ朱印が捺してある。又紙継目裏毎に、印文「天下布武」馬蹄形の朱印が捺してある。之に依って両種の印の軽重さがわかる。天下布武馬蹄形の印は…

織田信長が安土城の山下の町に下した掟書

第二式 日附次行捺印印判状 この部類に入る印判状は、江戸幕府の朱印状に多くあるが、細かい書式に至って分けべきものに、 い式 日附が年月日から成り、充所を袖に記したものとして、〔五一〇〕の如きがある。これは織田信長が、天正四年から京畿方面に於け…

「五大力菩薩」の楕円形の小さい黒印

数多い条項の中に、玉薬を応分以上に用意せよとあるは、長篠に於ける武田勢の敗因の一が、織田徳川勢に新鋭の武器たる鉄砲がよく整っていた事に因ったことと思い合わせて興味がある。袖に捺してある印は例の龍の朱印であるが、紙継目表の上下二箇所に、「五…

天正三年武田勝頼の陣触の掟書

に式 日附が月日から成り、充所を具えないもの この部類に入る印判状を挙げると、〔五〇九〕はその一例で、武田勝頼が三河長篠の敗戦後、頽勢を挽回しようとして、尾三遠の三州に出勢を計画し、天正三年十二月十六日諸士に頒った陣触の掟書である。当時の陣…

武田信虎が操石という僧侶に送った印判状

更にこの部類に入るもので、本文書止めの異なったものとして、〔五〇八〕に挙げた如きがある。これは武田信虎が操石と云う僧侶に送った印判状で、日附は七月廿九日とあり、袖に鍔形重郭の中に、信虎の実名を印文とした黒印と、正圓重郭の中に獅子の像を彫ん…