2023-08-01から1ヶ月間の記事一覧

差出所、充所、本文書止め、日附の四つ

差出所、充所、本文書止め、日附の四つの言葉は、其各部分を概括して呼ぶ述語であるが、此等の述語を以て表す内容を更に細かく表す為に、書札礼に於いて又種々の述語が用いられている。之に就いては、既に本章の始めに於いて、一通り説明を加えておいたが、…

差出所、充所、書き終わり、日附の四点から便宜差出所を基準に考察

然らばこの書式の相違を如何にして識別すべきであろうか。諸種の書札様文書を通覧すると、差出者が何者であるかを表す差出所、受取者を表す充所次に本文の書き終わりと、日附との四つの点に、それぞれ定まった相違が現れている。この四つの点に着眼して観察…

書式の相違によって授受者の地位を知る

而して此等の相違が、文書授受者の如何なる相互関係に依って来るかを知ることは、文書全体の意味を理解する上に極めて必要である。書式の相違に依って、授受者の地位如何を知ることができるからである。とのことです。

種々の書札様の文書の書式に貫通する礼法とは

然し必ずしも書札礼のままに行われたとは限らず、実際の場合に当たっては、種々の事情が条件となって、その書式が整えられることもあった。従って種々の書札様の文書の書式に貫通している礼法が如何なるものであったか。それを知るには、今伝わる多くの書札…

異なった書式をみせる書札様文書

第三 書札様文書の書式 上に列挙した書札様の文書を通覧すると、その書式の細かい点に於いて、それぞれ相違が表れている。之はここに挙げたものに就いてのことであるが、今に伝わる無数の書札様文書は、尚各異なった書式を具えているものである。此等の相違…

差出所に重きを置くか、充所に重きを置くか

この書式は、袖判の下文、即ち書札式の充所の無いものよりは、この充所があるだけにより鄭重な書き振りであるが、日下若しくは日附の次行に差出所を表すものよりは疎略な書き振りである。この書式は、右両様の書式の中間に位した書礼を表すものと見るべきで…

日下若しくは日附次行でなく袖に差出所あるのは先方を卑下している

叙上の諸例に見る如く、この部類の文書は、諸種の事柄に関して出されているけれども、その充名の人柄は、差出所が日下若しくは日附次行のものに於けるよりも、概して軽く扱っている者である。日下若しくは日附の次行に差出所を表すよりは、袖に表す方が先方…

尊大な武田晴信の袖判の過所

第六種 過所・条目 尚この書式のものに、〔四七五〕の如き過所と申す文書もある。文安五年十一月、延暦寺護正院代等が、南禅寺造営料木の運送に対して出したものである。又〔四七六〕は、弘治三年十二月二日、甲斐の武田晴信が、同国八幡宮に出した掟書であ…

大友氏の書札礼は一般と大いに相違

第五種 官途書出 更に〔四七四〕に挙げたのは、天文廿四(弘治元)年閏十月三日、豊後の大友宗麟が、筑前博多の神屋亀菊に四郎左衛門の仮名を許す為に出したものである。前陳の官途の書出しの一種類である。大友氏の此種の文書は、鄭重な書礼を伴うことが後…

先方を可成り軽く扱った足利義満の御判御教書

尚〔四七三〕に挙げたものは、応永十五年二月廿四日、義満が美濃大興寺を南禅寺慈聖院の末寺と為し、諸山に列せしめる為に出した文書であるが、充所は単に住持とある。この文書は同じ袖判でも、先に挙げたものよりも先方を可成り軽く扱った書き振りと云うべ…

足利義満が石見の佐波氏に送った切紙の御判御教書

第四種 御判御教書 更に〔四七一〕、延文元(正平十一)年十二月廿三日、将軍足利義詮が、土岐下野守に、尾張海東郡内における同氏の庶子等の旧領を預ける為に出した文書で、此部類の形式を具えている。御判の御教書と云うべきものであるが、内容から申せば…

京都八条大宮領家御教書と預所施行状

第三種 施行状 〔四七〇〕は、延慶二年十一月六日、京都八条大宮田地の預所が、領家が国光と藤原氏女と申すものの相論を裁許した御教書を施行した、施行状と云うべき文書である。之は単に袖判で無く、一つの位署の形を表している珍しい書式であるが、矢張り…

足利義氏が鑁阿寺供僧に充てた禁制掟書

第二種 禁制・掟書 かかる形式を具えた文書は、右二通の文書の時代に限るかと云うに然らずして、〔四六九〕に挙げたものは、宝治二年七月六日、足利義氏が、下野足利の堀内大御堂即ち鑁阿寺の供僧等に充てたもので、正にこの部類の形式を具えている。大御堂…

鉛鉱山の採掘権に関する文書

次に更に一例を図版に示すに、 (略) この文書は、徳川家康が高野山の仙昌院と小林三郎左衛門尉に対して、三河の菅沼常陸介同半五郎の知行地内に於ける鉛の鉱山の採掘を役銭免除の上で許可し、且つ徳川氏分国内何地にても銀鉛の鉱山が出現したならば、其採…

今川氏の一里は六十町、北条氏の一里は六町

之に依って当時に於ける今川氏分国内の伝馬制度がよくわかる。因みに一里十銭の伝馬賃と、小田原北条氏が行っている一里一銭の伝馬賃と対比して、今川氏の一里が六十町、小田原北条氏の一里が六町の割合であったことが知られるのである。かような制規の中か…

今川義元が御油駅に充てた宿駅伝馬の掟

第一種 判物 (略) この文書は今川義元が三河国御油駅の二郎兵衛尉に充てて、宿駅伝馬の掟を示したものである。義元の袖判が加えてあり、充所は日附の次行にある。即ちこの文書はこの部類に入る。この掟書は、一里十銭即ち一里に就いて十銭の伝馬賃を要求す…

袖判を加えた直状

第二式 袖差出所直状 以上挙ぐるところの直状は、日下に差出所を具えたものであった。然るに日下にあらずして、袖に差出所を表す、即ち袖判を加えた直状がある。既に述べた奉書の部類の中にもかかるものがあったが、それと同様なものをこの直状にも見るので…

蒲生氏郷から伊達政宗に充てた覚書

次に〔四六八〕は、(天正十八年)十一月十五日、秀吉の奥州平定後、会津に封を受けた蒲生氏郷から、同じく米沢に封を受けた伊達政宗に対し、秀吉の奥州処分に不満を抱きたる大崎葛西両氏旧臣等が起こせる一揆平定の方策等に関し意見を伝えた覚書、当事者の…

氏康氏政父子から輝虎に送った条書

尚この種文書の例を示すと、〔四六七〕の如きものがある。之は永禄十三年三月越後の上杉氏と相模の北条氏との和談が成立して、北条氏から氏康の子三郎氏秀を質として越後に送ることとなり、この送致に関し、又和談成立後の種々の事項に関して、氏康氏政父子…

本能寺の変後、明智光秀が細川藤孝に送った覚書

(略) この覚書は、天正十年六月九日、明智光秀が本能寺の変後、その女婿細川忠興の父藤孝に送ったものである。三の条目から成っており、一つに藤孝忠興父子が本能寺の辺を聞いて髻を切ったことは如何にも腹立たしいが、又当然とも思われる。然しかくなった…

覚とあっても、当時は手日記、条書、条目等と称していた

この種の文書には、差出所も時に記してないこともあるが、それは極めて稀である。然し充所を欠いていることもある。要するに書式は概して簡略なものである。 かかる文書を、当時手日記或いは条書、条目等と称している。書き出しに覚とあっても必ずしも覚書と…

使者が持参し、内容を説明する場合もあった

之は使者が持参して、一書の内容を敷衍して説明する場合のものもあったようである。当事者の間には、記事の意味が充分判っていたのであろう。極めて簡単に書いてあるものもある。簡単に書いてあるからと云って、必ずしも使者の口上を俟って始めて理解の行く…

一書のみから成り立っている形式の条書・覚書

第十七種 条書・覚書 先に挙げた書状の中にその記事を一書に表したものがある。この一書のみから成り立っている形式を持った書状の一種がある。之は先方に覚として箇条を示す意味のものである。書き出しの例文は「覚」とか或いは「条目」等と書くのが通例で…

遠方から送った書状が如何にして作られたか

事実文中にその案文を家久の許に送ったと書いてある。これは当時遠方から送った書状が如何にして作られたか、その一の方法を知るべき上に貴重な資料と申さんえばならぬ。又かような場合、判紙に捺す花押は如何なるものであったろうか。かかる場合には花押の…

島津家久の花押だけを捺した白紙の判紙

古文書の研究上注意すべきは、文中箇条の中に、家久が鹿児島から義弘の許に判紙と云うものを送っていることの見えることである。判紙とは家久の花押のみを捺した白紙であろう。之に義久が適宜草案を作ったものを清書せしめ、家久の書状として差し出したもの…

関ケ原合戦前に、島津義弘が薩摩の家久に送った書状

終わりに〔四六六〕は、(慶長五年)八月十九日、島津義弘が美濃垂井に出陣中、薩摩にをった家久に送った書状である。兵を上方に上すべきや否、関ヶ原合戦に対する島津家のとるべき態度に関して詳細に伝えた書状、当時に於ける確実な史実はかような史料に依…

充名が女子の場合にみかける「まいる」を充名の上に書いた書式

この「まいる」は通例であると、本文の充所の如く充名を書いて、その下に記すのである。然るに端裏の充所には充名の上に書いてある。之は充名が女子である場合に執る書式である。女子の場合必ずしも左様であるわけでは無いが、かような書き方は、女子の充名…

脇附の「まいる」

扨てこの書状の書式に特に注意すべき点は、料紙の巻き返し即ち端裏に書いた充の表書である。この中の始めに「」とあるは「まいる」の略字であって、書札礼の方で脇附と申すものである。申給へも同じ性質のものである。何れも鄭重さを表した例文である。との…

吉川経家の自刃

此後三カ月よく城を守ったが、遂に力尽きて、経家が籠城の将士に代わって自刃して開城し、侍の面目を汚すことなく、名誉を後の世に伝えたのである。この書状の他に、城中の情況を詳細に記して、家臣に伝えた書状も伝わっているが、この書状は経家自ら筆を執…

吉川経家の郷国の子供たちにあてた自筆書状

〔四六五〕に挙げた書状は、郷国に留まっている長子亀寿丸(経実)并に児女あちやこかめちよに、籠城の状況を記し、寄せ手が守備の堅固に攻めあぐみ、あきれはてている由を告げて、父の出陣を心配している子息を安堵せしめ、且つここに籠城して首尾よく成功…