2023-04-01から1ヶ月間の記事一覧

大切に護持相承されてきた貴重な文書

右二通の文書は、書状の部類に入るべき文書であるが、円覚寺の創立に関し、その開祖と檀家との最初の関係を伝える貴いものであるが故に、後世に至るも益々大切に護持相承して今日に及んだものと思われる。とのことです。

幕府の厚遇に対する感謝の意を表す返書

当時帰化早々の僧侶であるから、勿論純然たる支那の書状の書式をとったものと思われる。その充所を欠いているのは恐らく幕府の厚遇に対する感謝の意を表す、謂わば返書とも申すべきものであったからと思われる。とのことです。

書牘しょとく、手紙

(略) 時宗は祖元を迎えて之を建長寺の住持と為したが、弘安四年蒙古襲来のあった翌年円覚寺を創建し、祖元を請うてその開祖に仰いだ。更に翌六年七月十六日、幕府は円覚寺を祈願所となした。この文書は、祖元がかく円覚寺が将軍家の祈願所と為ったこと、且…

国難を排除した時宗

時宗は祖元に帰依すること極めて厚く、之を師として益々禅機を学び、修養を積み、かくてかの弘安四年再度の蒙古襲来の時にも、何等動ずるところなく、勇猛果敢に三軍を指揮して、国難を排除したのである。この文書は、時宗の禅学修養を見るべき実に貴重な史…

「和南」は時宗の自筆

恐らくかかる要用にも応ずることを予想して、文章も漢文体に、且つ差出所時宗の下に「和南」、即ち謹みて申す意味の文言を添える等、いと謹厳な書式を整えたものと思われる。而もこの二字は時宗の自筆と見るべきである。とのことです。

円覚寺の開祖子元祖元が来朝

文章は前の良経の書状とは全く異なって、漢文体である。この招聘に応じて翌二年六月渡来したのが、円覚寺の開祖子元祖元(仏光国師)である。この文書は右の要件を両僧に伝えた書状であるが、両僧がこの使命を果たし祖元が来朝し、時宗が之に帰依したのであ…

蘭渓道隆の寂後、高僧を求める時宗

(略) 北条時宗は深く禅宗に帰依し、建長寺の開祖蘭渓道隆(大覚禅師)に師事していた。然るに弘安元年七月廿四日、道隆が寂したので、更に宋朝から禅宗の高僧を招聘せんとして、建長寺の蔵主徳詮、典座宗英にその命を伝えたものがこの書状である。とのこと…

書札様の文書、公私の文書何れにも用いられた

又この書札様の文書が前項に列挙した如く、御教書奉書の如き公の意味を持った文書として盛んに用いられたのであるから、この文体は中世時代以降に於いては、公私の文書何れにも用いられたと云うべきである。とのことです。

平安時代末期頃から用いられる候文体

又文章の中に候の文字を用いているところがある。これは平安時代中期頃迄は現れない言葉であって、その末期頃から次第に用いられて来る。これがかかる書状消息に多く用いられ、所謂候文体が、書札の文体の主流を為すに至ったのである。とのことです。

良経の後法性寺流の書風

料紙は二枚から成っている。書止めが謹言で差出所は花押のみ、之は目上の者に送る書礼では無い。当時に於ける公家の人々の書状の一例として見るべきものであり、勿論これは良経の自筆であって、その後法性寺流の書風を窺うことができる。とのことです。

内大臣藤原良経の弟興福寺良圓宛書状

(略) この文書は、正治元年六月内大臣藤原良経が其弟興福寺良圓に、良経の左大臣昇進に関し摂政近衛基通等が妨げし事情を告げ、春日社にその昇進の成就を祈念せしめる為にだした書状である。とのことです。

公私両様や純然たる私的のものなどを総括して書状消息と呼ぶ

而して意味に於いても公私両様を兼ねたもの、若しくは公私の区別を付けかねるものもある。また純然たる私的のものもある。又文書を受け取った人が、更にそれに返事を書いて送ったものもある。此等を総括して書状消息と呼び、史上著名な人々のもの、若しくは…

公の意味を持ったもので書状消息としかいいようのないものがある

第一六種 消息・書状 書札式の文書で公の意味を持っているものに就いては、既に幾つかの部類を立てて説いたのであるが、なお公の意味を持ったもので、其等の如く特殊な名称を付け難く、如何にしても書状消息としか付け得ないものが多くある。とのことです。

名字が苗字官名よりも小さく書いてある

扨てこの副状の形様で注意すべきは、差出所長吉、吉隆の名字が苗字官名よりも小さく書いてあることである。之はこの頃から現れ始め、江戸時代に至ると、一つの固定した書式となっている。とのことです。

朝鮮在陣中、虎と豹を狩りとった吉川広家

料紙は鳥子を切紙に切って用いてある。封紙も同質の紙を用いたこと勿論であるが、今伝わっていない。封の形式は折封と申すべきものであったろう。 なお副状の一例を示すに、〔四四九〕の如きものがある。これは(文禄四年)四月廿二日、豊臣秀吉が吉川広家に…

鉄砲の伝来普及の最古の資料は御内書でなく副状

この稙家の副状は種子島家にも時堯のものが伝わっているが、肝心の御内書は、種子島家のも、又島津義久充のものも伝わっていない。正文計りで無く写も伝わっていない。即ち鉄砲の伝来普及に関する最古の文書としては、この稙家の副状を挙げねばならぬのであ…

副状は本状よりも鄭重に書くものであった

而して差出所は同じく花押のみである。要するに、稙家の書状の方が御内書よりも少しく鄭重に書いてある。前に挙げた御内書に副えた大館晴光の副状が、御内書の書式よりも遥かに鄭重に書いてある程の相違は見られないが、兎に角副状は本状よりも鄭重に書くも…

種子島時堯と島津義久に充てられた御内書

その御内書は種子島時堯と、時堯の進納を取り次いだ島津義久とに充てられたのであるが、右に挙げた文書は、関白近衛稙家が、義久に充てた御内書に副えて出した書状である。先に挙げた義輝の御内書と書式の相違する点は、書止めが、御内書は「候也」とあるに…

種子島家の鉄砲の火薬を褒賞する御内書

(略) 周知の如く、我国に於ける鉄砲は、天文十二年葡萄牙人が、薩南の種子島に渡来して、之を邦人に伝えたのに始まるのである。その後幾年か経って種子島家から、その鉄砲の火薬を京都の将軍家に進納したが、それが南蛮人直伝に依って作り、他に類の無いも…

足利持氏の文書に副えた上杉憲実の副状

〔四四八〕は、上杉憲実が、公方足利持氏の文書に副えて、下野の長沼淡路入道に充てたもの、皆川刑部少輔の遺跡相続の事に関して命を伝えた文書である。とのことです。

将軍家の下文に秋田城介泰盛の副状

次に〔四四七〕に挙げたのは、(建治二年)八月廿八日、秋田城介泰盛が、薩摩の島津久経が安堵下文を受けたとき、その下文に添えた副状である。当時泰盛は幕府の柱石として実力を具えていたから、将軍家の下文に副状を付けて、その権威を増大せしめんと図っ…

正親町天皇の女房奉書に添った副状

第一五種 副状 既に述べた御内書、直書に添った副状は、その例を御内書、直書と共に挙げておいたが、ここに特に副状の項を設けて、更に之を収めることとする。 先づ〔四四六〕は、前に女房奉書の項で説いた正親町天皇の女房奉書に添った伝奏庭田重保勧修寺晴…

石田三成増田長盛の副状

直書と呼ぶべきものを挙げるに、〔四四四〕の如きがある。これは、(天正十四年)九月廿五日、羽柴秀吉が越後の上杉景勝に、同国新発田氏并に上野の真田氏の事等に関して命を伝えたものであって、この直書に添って行った石田三成増田長盛の副状は、〔四四四…

本人の直々に出す文書という意味で直書と呼ぶ

然し信長秀吉等のかかる文書は、侍臣奉行等が奉書を屡々出していることでもあるから、副状を伴うときは勿論、然らざるときは本人の直々に出す文書という意味で、直書と呼んでよいであろう。なお書札様の文書であるから、書状と平凡に呼んでおいても無難であ…

御内書も直書の意味を持っている

御内書も直書の意味を持っていること勿論である。副状を伴わず、単独に出る場合でも、奉書に対揚してその人の直々に出した文書と云う意味で直書とも云うのである。戦国時代の諸大名から織田信長、豊臣秀吉等の文書で書札様の文書にして、判物、朱印状、印判…

直書と副状

第一四種 直書 御内書に副えて送る文書は、之を副状と云ったが、この場合御内書と称し得ない、若しくは称しなかったものであると、副状に対して之を直署と云っていることがある。主人の直接だすもの故直書、これに添う文書が副状と云うのである。とのことで…

江戸時代、御内書は大高檀紙、老中の副状は奉書紙

なお、室町時代にては、御内書が大高檀紙であれば、副状は杉原、鳥子の切紙であれば、同じく鳥子であっても、薄手のもの、若しくは杉原であった。江戸時代に於いては、御内書の大高檀紙に対し、老中の副状は奉書紙で、何れも折紙の形式をとっている。とのこ…

切紙の御内書を内御内書と云う

扨て室町将軍家の御内書の中、小文即ち料紙が切紙であると、特に内御内書と云い、立文即ち通例の大きさの料紙を用いたものを御内書と云い、両様の区別があるように、書簡故実に説いているが、他の書札礼に記してあるものを見ない。唯参考のためにここに記し…

家康以後の御内書は折紙を用いている

それから前記家康以下の御内書は、初期のものはまま奉書紙を用いているが、多くは通じて大高檀紙を用いている。而して家康以後将軍の御内書は、折紙と必ず定まっているのである。この辺に於いて文書の形式が明らかに固定した傾向を窺うことができる。とのこ…

大判で皺の大きい大高檀紙

御内書の檀紙は大判で皺も大きい、所謂大高檀紙である。この大高檀紙が、秀吉の天正十四年以後の文書に多く用いられ、用紙の上から秀吉の文書が、将軍のものと同等になっている。とのことです。