2022-10-01から1ヶ月間の記事一覧

毛利輝元の花押のある奉書

〔三五二〕は、天文五年五月廿七日、播磨の赤松政村老臣の奉書で、袖に政村の花押があり、廣峯社祠宮廣峯与九郎に廣峯内の知行預置等に関して出したもの、〔三五三〕は、天正二年四月二十四日、安芸の毛利氏老臣の奉書で、袖に輝元の花押があり、家臣湯原元…

大内氏の他に例のない書式の奉書

尚周防の大内氏も袖判のある奉書を出している。 (略) ここに挙げたのはその一例で、大内義隆の奉行衆が、義隆の仰せを承って、敵に通じていた厳島社の内侍を罷めさせることを、棚守左近大夫に命じた文書で、袖に義隆が花押を加えている。日下の差出所も先…

北畠具國の花押が押してある奉書

即ち〔三五一〕はその一例で、享禄三年十二月十一日、澤伊予守同兵部大輔をして宮河橋賃の加増関銭を安堵せしむる為に出した奉書で、北畠具國の花押が袖に押してある。之は既に述べた国宣にして袖判のあるものに系統を引いていると云うべきである。とのこと…

伊勢国司北畠氏の出した奉書

降って足利幕府に於ける将軍家の文書にはかかるものは無いが、室町時代地方に於ける守護大名の間には、かかる書式の奉書を出しているものがある。次に示すものはその一例である。伊勢国司北畠氏は、室町時代には、全く武家化していたのであるが、同氏がこの…

足利家時の雑掌の奉書

執権と云うが如き権力ある地位に至らなかった武家でも、右と同じ書式の奉書を出している。〔三五〇〕に挙げた文書は、足利尊氏の祖父家時の雑掌の奉書で、袖判は家時の花押である。三河国額田郡の公文所に秦梨子郷の年貢を免除して、当時の給主に之を与えた…

義時袖判の奉書は、幕府の命令と見做しては誤りとなる

この種の奉書には主人の署判があるから、その花押さえ判明すれば、この奉書が誰人の仰せを伝えたかと云うことが明瞭となる。この点では、前項に述べた鎌倉時代に於ける武家の袖判の無い奉書よりも取扱が容易である。この義時雑掌の奉書は、義時私人の命令を…

北条義時袖判の奉書

更に武家の奉書で、袖判を加えた例を示すに、〔三四九〕に挙げた文書は、北条義時の侍者が肥後国甲佐社司の神田に関する訴訟を裁定して、先例に依るべきことを伝える為に出した奉書である。袖判は義時が加えたもので、日下に名がかいてある奉者即ち侍者は、…

酒匂郷の隣が走湯山領の柳下郷

酒匂郷の隣が柳下郷と申し、之が走湯山領であった。酒匂太郎はこの郷にも関係していて、走湯山の免田に不当の所役を課させようとしたものと思われる。右の広元の奉書のみではその内容を充分明らかにし得ないが、前田家所蔵走湯山文書と照合すると、大体右の…

酒匂太郎は相模国酒匂郷に居った人

この文書は、差出者が頗る著名であるに引替え、充名や内容に至っては、極めて明瞭を欠くものとされていた。然るに最近前田侯爵家に伝わる伊豆走湯山伝来の頼朝関係文書に依ると、充名の文養房は、かの頼朝の挙兵当時御祈祷師を勤めた人で、吾妻鑑に文陽房覚…

一二しか伝わらない大江広元自筆の文書

この文書は、大江広元が、源頼朝の仰せを承って出したもので、頼朝が袖判を加えている。文養房と申す者に奉加勧進を許せること、并に酒匂太郎が田地に何か課役を懸けたるを、免田に就いては、徴収せざるよう命じたる由を告げたものである。広元の自筆の文書…

大江広元が奉じた頼朝奉書

ほ 武家奉書 (頼朝)(花押) 奉加勧進し候つるらんひしりのま心ならむ、一人忩可令沙汰進給也、奉加のものとも沙汰して、為之進給也、兼又酒匂太郎ニハ、田のなにとかやとり候なるをは、件免田の分をハ、一切不可取之由、昨日被仰含候了、可令存此旨給之状…

当時之を下文と称していた奉書

尚例示すれば、同人から出した奉書である〔三四八〕の如きがある。これは宮清から松原八幡宮の預所沙汰人等が、社頭寺内に謂れなく乱入して検断を致し、或いは坊室に対して雑役を課するので、この非法を止め、且つ社寺内に重犯人出来の時は、本所即ち善法寺…

石清水八幡宮祠官善法寺宮清の袖判の奉書

に 社寺祠官寺官奉書 (略) この文書は、石清水八幡宮祠官善法寺宮清から、その別宮播磨国松原八幡宮の一切経會料田三町の中一町三段は、既に別当寺の寺僧が領作していたが、この文書に依って、更に残の一町七段をも、寺僧に与えるように、別宮の預所に命じ…

権大納言広橋国光の袖判の御教書

尚〔三四七〕に挙げたものもこの式に入る例、永禄五年十二月廿八日、権大納言広橋家が禁裏御倉職の申次として、立入宗継を同職に任命する為に出した奉書で、諸大夫が奉者として日下に位署を記し、当主国光が袖判を加えている。とのことです。

庄園寺社の袖判の御教書

は 諸家御教書 庄園寺社の領家も、袖署判の奉書を出している。〔三四六〕に挙げたのは、正平廿五年八月廿四日、筑前国大宰府の安楽寺の領家宮内卿家から、同国榎木寺の下地を、大浦寺法橋の代官に渡付せしめる為に出したものである。袖の署判は、領家宮内卿…

千草左馬頭の袖判の御教書

尚〔三四五〕は正平六年六月五日、千草左馬頭が近江の多賀平左衛門尉の来附を賞する為に出した文書であるが、袖判を加えた右と同じ形式の文書である。恐らく左馬頭は、一方の将軍として活動し、かかる形式の文書を出したものと思われる。とのことです。

御教書というも、国宣というも、書式は全く同様

ろ 鎮守大将軍御教書 北畠顕家は前に説いた袖判のある国宣を出しているが、その後鎮守大将軍として〔三四四〕に示した如き、袖判を加えた奉書を出している。延元元年八月六日、南部政長に京都の戦況を告げ、糠部郡内の鎮撫を命じたものである。この後顕家は…

国守として出した北畠氏の国宣

国宣は、国守の権威が衰えて、国の領主が勢力を張るようになって起こって来たものである。然し、その領主が地位が高いと、単に奉者の出す奉書に過ぎなかったが、それが比較的地位が低いと、その者が袖判を加えて、文書に證據力を付けたものであろう。陸奥の…

南部相馬両氏に伝わる陸奥国司北畠氏の国宣

尚陸奥国司北畠氏の国宣を挙げると〔三四三〕の如きがある。正平六年十二月十五日北畠顕信が相馬親胤に、一族を率いて来附せんことを促す為にだしたものである。南部相馬両氏の古文書には、かかる類の文書が多く伝わっている。とのことです。

長門赤間関阿弥陀寺の不断念仏料田

国宣に就いては、既に前項にその実例を挙げて説いてある。それは通例の奉書の書式を具えてをり、袖判は加えてない。然らば袖判を加えた国宣は、右図版の両文書の如く、建武年間から始まるかと云うに左様では無い。〔三四二〕に挙げた文書は、長門国宣で、〔…

中御門経継が袖判を加えた国宣

尚日附に年号を付けない左の如きものもある。 (略) この文書に当国とあるは信濃のことである。同国伴野庄地頭職は、建武中興の時、大徳寺の開山宗峰妙超(大燈国師)が賜ったものであるが、後この地頭職に対して、伴野氏が押妨を致したので、綸旨の旨に任…

北畠顕家が袖判を加えた国宣

御教書・奉書 い 国宣 (略) この文書は、陸奥国司北畠顕家が、南部師行をして、阿曽沼朝綱の所領遠野保の押領人を退け、この所領を朝綱の代官朝兼に渡付せしむる為に出したものである。大蔵権少輔清高と申す者が奉じて、袖に顕家が加判している。この形式…

下文と同じ形式が奉書に移ったと見るべき文書

下文の中袖判を加えて日附の下、若しくは次行に取扱者の位署を加えた下文と同じ形式が奉書に移ったと見るべき文書である。袖判の主は部下の調進した文書を承認して、更に差出者たることを示す為に署判を加えたのである。管見に入ったこの書式の文書を類を分…

日下に位署を加えさらに袖判を加えたもの

第二式 袖加判奉書 前段に説いた奉書は、差出所は日附の下にあって、その次行に充所のあるものであった。この式の奉書に、更に袖判を加えたものがある。この袖判は日下に位署を加えた者が仰せを奉じているその主人のものである。とのことです。

豊臣秀吉の奉行衆の奉書

豊臣氏奉行奉書 以上挙げた例は戦国時代の守護諸大名のものであるが、豊臣秀吉の奉行衆も、右と同じ書式と認むべき文書を出している。〔三四一〕は、慶長二年三月七日、侍下人等をして組を結ばしめて、社会の秩序の安定を図る為にだした掟書であるが、ここに…

近江六角定頼の年寄の奉書

然るに、〔三四〇〕に挙げたものは、大永五年九月廿五日、近江六角定頼の年寄が、同国高島郡の朽木家の雑掌に充てて、丹後出勢の事に関して伝えた文書であるが、これには前陳の奉書と対比して、書式の上に大きい相違が現れている。この奉書は料紙は折紙を用…

周防大内義隆の年寄が奉じた奉書

尚〔三三九〕は、天文十一年四月六日周防大内義隆の年寄が、安芸厳島社の管絃経の料田に就いて同社の御師棚守左近大夫に出した文書である。先の大友氏のものと書式が全く同じである。大内氏から出したかかる奉書は、室町時代の中頃からのものが伝わっており…

戦国時代にも諸国の守護大名から奉書を出している

所謂戦国時代に至っても、諸国の守護大名から奉書を出している。その一二の例を左に挙げる。〔三三八〕は、天文五年八月廿一日、豊後大友義鑑の年寄入田親廉外二名が問注所加賀守に知行を充行うことを奉行三原和泉守外一名に伝える為に出したものである。こ…

越後国の守護の仰せを奉った奉書

〔三三七〕は、明応七年五月十三日、越後国の守護上杉房能の老臣長尾輔景、千坂能高の両人が房能の仰せを奉って出した奉書で、料紙は折紙を用い、幕府奉行衆の折紙の奉書に当たるものである。室町時代有力な守護であった諸家から、大抵かような奉書を出して…

諸国の守護大名年寄奉行の奉書

守護大名年寄奉行奉書 諸国の守護大名に於いては、その年寄、奉行等が主人の仰せを奉じて奉書を出している。之は室町幕府奉行衆の奉書に類似した文書である。〔三三六〕に挙げたものは、応永八年十月七日、伊豆国の守護上杉憲定に属していた奉行衆が、守護代…