2023-07-01から1ヶ月間の記事一覧

当時の父子の間での書礼がわかる貴重な吉川元春の書状

又当時の消息文が如何なるものであるか、父子の間に於ける書礼も明らかに知ることのできる実に珍重すべき文書である。先に元就の書状のところで、毛利吉川両家文書の中には、父子叔姪の間で取り交わした書状が沢山伝わっていると述べたが、ここに挙げた元春…

吉川元春が、子経言(広家)に充てた書状

次に〔四六三〕は、(天正七年)二月十八日、吉川元春が其子経,言(広家)の行儀に関して意見を述べた書状である。全文に元春が父として子を思う情愛が溢れ、如何に子弟の教導に意を用いていたかが知られる。文中元就の孫、元春の子として恥ずかしからぬよう…

羽柴秀吉の小寺孝高宛書状

次に図版にも示した秀吉の自筆書状の他の一例をここに示すと、〔四六二〕の如きがある。これは(天正五年)七月廿三日、羽柴秀吉が信長の命を受けて、播磨を平定せんとせる折、同国姫路城主小寺(黒田)孝高に、共に相談して万事処理せんことを告げた書状で…

史料として役立つ書状

終わりに信長と秀吉との将来を予言して、信長五年三年はもつが急に仆れて、其の後は秀吉が天下に威権を振るうであろうと書いてある。之から十年後本能寺変や其の後に於ける秀吉の地位を的確に予想しており、恵瓊の炯眼を見るに足るものがある。かような史実…

安国寺恵瓊と羽柴秀吉、朝山日乗の交渉

此形勢を見た安芸の毛利家では、使僧として恵瓊を京畿に上せ、義昭と信長との和睦に尽力せしめ、且つ義昭の動静を探り、義昭が可成中国筋に下らぬように取り計わしめた。恵瓊はこの使命に尽くすところがあり、その結果を持って、急ぎ安芸に帰る途中、備前岡…

安国寺恵瓊の「高ころひ」の書状

次に自筆の書状にして、而も内容の極めて豊富な一例を示す。〔四六一〕は、(天正元年)十二月十二日、安国寺恵瓊が、安芸の吉川小早川両家の老臣山県越前守と井上春忠とに送った書状である。足利義昭は織田信長に擁立せられ将軍職に就いたが、信長の威勢が…

西国地方には余り見られない書式

尚書状の形式として一書に書き表してあるが、一々行を改めずに、一の前を一字明けて書き流にしている点は特別な書式である。この書式は大体永禄頃の書状から現れており、之も西国地方には余り見えない書式のようである。とのことです。

信玄死没の風聞が飛騨に伝わる

尚信玄は三河から退陣の途中四月十二日、信濃駒場で病没したのであるが、それから十三日後に飛騨に風聞が伝わり、それが而も確説で無く半信半疑であったこと、当時一方に於ける雄将の死没が如何に伝わって行くものか、この辺の事情をこの文書に依って知るこ…

飛騨江間氏の老臣から上杉氏老臣に送った書状

〔四六〇〕は、飛騨諏訪城主江間氏の老臣河上富信と申す人が、上杉氏の老臣河田長親に送った書状である。元亀四年即ち天正元年四月廿五日のものである。中に謙信と信長との関係も見えているが、飛騨から甲斐の武田信玄死去の風説を伝え、之が美濃尾張即ち織…

三河辺りから東方関東、越後、東北地方に固有の文書

この形式は大体この頃の文書から現れている。而して之が行われた地域は、東国即ち三河辺りから東方関東、越後、東北地方である。地域に依って文書の書式に特殊的色彩が現れている一例に挙げることができる。とのことです。

越後上杉氏と小田原北条氏との和談

次に体裁等に地方的特色のある一二を挙げる。〔四五九〕は、越後上杉氏の城代として上野沼田城にをった沼田三人衆松本景繁、上野家成、河田重親が、永禄十二年春から始まっていた越相和談即ち上杉氏と小田原北条氏が協和して甲斐の武田氏の関東侵略に当たろ…

神余、「かまり」ではなく「かなまり」か

この書状は、鳥子の切紙に書き、追而書は極めて小さい紙片に書いてある。本紙が切紙であると、追而書は小切紙に書くのが一種の書礼となっている。この追而書に見えている神余(かまり)氏は越後から京都に出ていたので、その下向にこの書状の送致を託したの…

三條西実隆が長尾為景に送った書状

少しく時代が降って〔四五八〕は、(大永七年)六月十日、三條西実隆が越後の長尾為景に送った書状である。越後にては青苧が生産され、三條西家は之が公事銭を収納する株を持っていた。その進納が三箇年間も滞ったので、為景にその進納の催促を致すように依…

名和長年の鞍馬寺衆徒充て書状

次に〔四五七〕は、(元弘三年)八月十三日名和伯耆守長年が、鞍馬寺の衆徒に充てたものである。同衆徒の勢力を味方に付け、衆徒に京都合戦に依って洛北に向け没落する凶徒を捕縛せんことを依頼したものである。長年の文書は余り多く伝わっていない。此の点…

本文書止めに弥陀の名号を書く時宗の文書

時宗の僧侶の本文書止めには、弥陀の名号を書くのが通例であるが、すでにこの文書に之が見えている。又差出所に他阿弥陀仏と表すのみで、何れの上人であるか判らないことが度々ある。これは一般の書礼にかかわっていない書式と見ることができる。とのことで…

相模藤沢清浄光寺の他阿弥陀仏の文書

次に〔四五六〕は、(元弘三年)五月廿八日、相模藤沢清浄光寺の他阿弥陀仏が、かの新田義貞の鎌倉討入の際に於ける合戦の状況を、信濃金台寺の証阿弥陀仏に伝えたものである。当時従軍将士の間に念仏の信仰が厚かったこと、又時宗の僧侶が同志討の士の斬罪…

文箱に充所が記してあったのであろう

之は貞顕がその貞将に自ら筆を取って書いたものであるが故にかかる書礼をとったものであろう。当時の自筆書状に於ける父子の間の書礼を窺うことができる。本紙礼紙を合わせて折り畳み、切封に仕立て、その上に更に紙を懸けたのであろうが、その料紙に当たる…

貞顕の書状三通共に、差出所も充所もない

扨てこの貞顕の書状三通共に、差出所も充所も欠き単に日附があるに過ぎない。この書状の筆跡は貞顕の自筆であって、この点からも明らかに貞顕のものと定めることができる。差出所も充所ももとあったのが、料紙に利用した時其の一部を切って失ったかと云うに…

吾妻鏡のない時代の貴重な資料

尚この三月四日附の書状は、先のものと同様楚俊の記事と並んで高時と夢窓疎石との鎌倉に於ける関係記事の見えることも、実に注目に値する史実と申すべきである。かような書状で以上述べたような貴重な史実を知るものは余り多くない。殊に吾妻鏡のない鎌倉時…

文中の□は紙を立ち切ったために失われた

之と先の文書とを合わせ考えるに、前の文書は楚俊が鎌倉下着後、貞顕が楚俊に就いて貞将に伝えたものと見るべきであろう。因みに文中□のあるは、この文書がほかの書物の料紙に利用した時、紙を立ち切った関係から文字を失った為である。とのことです。

楚俊が鎌倉建長寺長老として入院

〔四五五〕も同じく貞顕の書状で、三月四日附、之には到来の日附が元徳二年三月廿七日と記入してあr、明らかにその年次を知ることができるが、この文書にも唐僧即ち楚俊が二月廿五日に鎌倉に下着して、三月五日に建長寺の長老として入院することが書いてあ…

貞顕の考えが詳細に書いてある注意すべき書状

之は天皇の御好学の一端を拝し奉る実に貴重な史実と申さねばならぬ。尚之に就いて幕府当路者が如何に考えていたか、又貞顕の考えが詳細に書いてあることも注意すべき記事と云わねばならぬ。楚俊は元徳元年に渡来したのではあるが、恐らくこの年のことでは無…

後醍醐天皇が明極楚俊を召す

金沢文庫には、かかる貞顕の書状の伝わるものが極めて多くあるが、〔四五四〕に挙げたのは、本紙礼紙二葉伝わり、略々その完形を窺うことができる。文中に唐僧とは何人であろうか。天皇が之を召されて御問答あらせられし理由が書いてある。この唐僧とは恐ら…

稱名寺の長老剱阿が紙背を利用

この文書は、貞将に充てた書状であるが、既に前編にも古文書を他の料紙に利用した事例として挙げた如く、稱名寺の長老剱阿が仏書を認める料紙に流用したところから伝わったもので、前半の本紙も同じように料紙に利用したのであろうが今は伝わらず、従って一…

太平記の高時の天狗舞を裏付ける古文書

これは他の史料にも見えているが、勅使の鎌倉滞在中の模様の一端を窺うことができる。尚、終わりに田楽の外他事なしとは、高時入道の振舞を伝えたことと思われるが、これはかの太平記に高塒の天狗舞の記事を事実に証明するものというべきである。とのことで…

礼紙のみ伝わる金沢貞顕の書状

〔四五三〕に挙げたものは、金沢貞顕の書状である。本紙礼紙二葉から成っていたが、今は礼紙のみ伝わっている。鎌倉に居った貞顕がその子貞将の六波羅在職中之に充てたものである。記事に依り正中二年と推定することができる。その記事には当時両統迭立のこ…

本紙と礼紙に書かれた大応国師の書状

次に〔四五二〕は、既に説明の資料に用いた南浦紹明(大応国師)の書状である。本紙と礼紙との二枚に書いてある。立派な書幅として保存されて来たから、書状の体裁は判然と伝わっていないが、もと封紙が別に具わっていたことは想像できる。禅僧でも日常の消…

鄭重な書礼ではない腰文

而してそこに差出所聖守とは書いたが、充名が書いてない。之は返事であるから略したものであろう。充名の有無に限らず、かかる体裁の書状を腰文と称した。紙の高さの丁度中間に封目を付けたところが、之を人体に喩えると、その腰部に当たるので、腰文と申す…

本紙の右端を切って紙縒を作りその上に墨引

この聖守の追而書は、右の説明の如く書いて行間に及び、而も本紙のみならず礼紙の本文の行間にも達している。本紙と礼紙を背合わせにして左端から巻いて右端に折り止めて、本紙の右端を半ば切って細い紙縒を作り、之で折り止めた上を巻いて、さてその上に墨…

追而書右の端の余白の高さ半ばから書く

扨て追而書は、この文書の様に右の端の余白に書くのが通例であるが、先づ余白の高さ半ばから下へ書き、この余白を書き詰めて、その後に上に半ば残しておいたところに書き続け、尚お書き足らぬ時は、本文の行間に書き入れいて行くのである。端の余白の上部に…