北条武田両家の文書に対して、越後上杉氏の文書は如何であったろうか。上の図版に示すものはその一例である。 この文書は、上杉景勝が、家臣栗林肥前守就頼に、上野国の荒砥の関所を同家の料所とし、その代官として管理する為に之を預け置くという朱印状を出…
次に奉者の傍に書く「奉之」の二字も、北条武田両家で相違している。北条家は始めは奉者の名を書いた左右両方の傍に書いたが、後には必ず右の傍と固定した。先に挙げた陸奥守安房守両名の場合でも、右側の人の右の傍に書いてある。之に引きかえ武田家は必ず…
然るに武田家のものは、晴信の極めて早い時のものは上部であったが、後には悉く日附の終わりの日字にかかるか、若しくはそれをはづれた下に捺すきまりとなっている。同じ日附の行に印を捺しても、両家のきまりにかような相違が現れている。とのことです。
北条家の印判は、悉く日附に捺したものであって、袖に捺したものは一つも無い。武田家のものは、袖と日附と両様になっている。而して北条家は日附に捺すに、早い時には日附の字面の下部に捺すこともあったが、これは少しの間で、大永の末年からは、必ず字面…
次に武田家に於いても、この類の印判状を多く出している。今その一例を〔四七九〕に挙げたが、これは元亀三年七月廿五日、信玄が、大坂石山本願寺門徒との関係を深める為に、信濃安曇郡の一向宗の正行極楽安養の三箇寺に、深志即ち松本城の普請奉行衆から課…
陸奥守は武蔵八王子の城主北条氏照、安房守は同国鉢形城主北条氏邦で、共に北条氏の一族中当主に次いで重き地位を占めていた人々であるが、この印判状の奉者となっている。この両人は単なる奉行人と認むべきものでは無く、北条氏一門の中にあって、諏訪氏の…
〔四七八〕に挙げた文書も、北条氏の印判状、甲斐の武田家滅亡後、天正十年七月十三日、北条氏が武田家の旧領信濃国を治める方策として、諏訪郡高島城并にそれに伴う知行を、諏訪大祝并に千野右兵衛尉に充て行う為に出したもので、日附の字面に、虎ノ印判が…
かかる裁許の印判状は天文二十四年のものが初見で、その後引継き之を出している。此等の印判状に依って、当時の訴訟制度の一端を研究することができる。かように裁判に関係した奉行とも云うべき者が奉者として印判状に現れているものは、前記今川氏と、この…
尚北条氏の奉書式印判状にして特に注意すべきものに、〔四七七〕の如きがある。この文書は、北条氏が、その家臣尾崎常陸守と宮城四郎兵衛との尾崎大膳と云う者の討死した遺跡に関する相論を裁定して出した裁許状である。奉書式の印判状で、評定衆として裁判…
第一式 日附行捺印印判状 更に之を細別して、先づ い式 日附が年月日から成り、充所を具えたもの 右に述べた大永二年の印判状は、正に之に当たっている。即ち、 (略) この文書は小田原の北条氏綱が相模(足柄上郡)大井宮神領屋敷の諸役免除等の為に、同宮…
第一類 奉書式印判状 新に印判の使用が盛んになったのは、室町時代の末期からであるが、之が全国一円に始めから盛んになったのではなく、先づ東国地方から始まったのである。その東国地方の大名にして、文書に印判を捺して出した初見は、実に永享元年、駿河…
今印を捺してある文書、即ち印判状を通覧すると、前部に於いて説いた書札様の文書と同じく、之を奉書と直状との両様に区分することができる。尤も印判状に於ける奉書は、奉者が差出所に現れ、それに花押を据えるかあるいは据えず、そこに印を捺すものは稀で…
印判状を部類分けするにも、種々の方法が考えられる。印そのものの意義、即ち家に具わった印である家印、之に準ずべき副印、個人に備わった印である私印、此三種の印に依って印判状を分類することも一の方法である。然し実際文書に捺した印から見ると、家印…
室町時代の末期から新に盛んになった印の中には、朱黒両色の印肉を用いた朱印黒印を始めとして、青印黄印等もあった。従って印の色に依って、朱印を捺した文書を朱印状と云えば、青印状黄印状の名称も用いなければならない。かくては区々の呼称となるから、…
乍然有力な武家の間には、単に花押の如き個人的の意味を持つもの計りで無く、その家に具わり、個人を離れた公の意味を多分に発揮するものもあった。かくて専ら花押を据えた書札様の文書に対して、印を捺した印判状が盛んになったのである。 この印を捺すと云…
然るに、将軍以外の守護大名以下武人にして、印を文書に捺して出すものが、室町時代の中期以後漸く現れ、その末期に至って極めて著しい事実となった。この印は形状と云い、印文と云い、禅僧のそれに倣ったもので、之が後まで続いたが、室町時代の末期に至っ…
八代義政が、九代義尚の薨後之に代って幕政を執り、晩年に至って偶その病中五山の禅僧の住持職任命の公帖に、花押を署する代りに印を捺したことが、前代に絶えて無き新例で、然も後に之が続かなかった。将軍は印は備えていたのであろうが、之を通例の文書に…
始めこの印は、主として禅僧が用いるところで、一般の世人が文書に捺すことは無かったが、吉野時代から次第に之を文書に捺すようになって来た。武士の間にも足利尊氏直義兄弟以来歴代将軍皆印を具えていたが、将軍が印を文書に捺すものは三代義満の頃からで…
第四部 印判状 前部に記した書札様の古文書は、室町時代に至って、益々盛んに用いられたが、この時代の末期所謂戦国時代から文書に印を捺して出すものが多く現れるに至った。印を文書に捺したことは、既に第一部公式令の書式を取った文書に見え、此等の文書…
この傾向はこの時期に印判の使用が全国的に普及した状態と全く歩調を同じくするものと云いうる。要するに群雄割拠の時代には、古文書の諸相に著しい地方的特色が現れていたけれども、それが近世に近づくに従って次第に消滅し、之に代わって共通の性質が全国…
この料紙の折方と封式の現れたのは戦国時代の始め永正の初頭からである。而してその用いられた地域は、東国地方に就いて云えば、印判の盛んに用いられた地域と大体一致するように考えられる。当時この地域に於ける武家文書を中心にして文書の地方的特色が成…
尚前記折紙と特殊封式を具えたものは、尾張伊勢地方のもの計りである。これは東国地方の特殊封式と近畿地方の折紙とが、地域的に交流したかの如き観を呈している。地理的に中間の地方に、中間的の形式が現れていることは、文化の伝播交流を考える上に極めて…
この封紙の横ノ内折式と、特殊な封式を具えた文書は、京都や西国地方に於いては全然行われず、大体越前及び尾張以東、出羽陸奥に至り、関東を中心にした所謂東国地方と九州の一角肥前の北部地方に行われたもののみ遺っており、古文書に於ける地方的特色とし…
次に少しく記すべきは、かかる特殊の封式の場合、本文の差出所充所と封紙のそれらとの関係である。この封式では、封紙の差出所充所は、本紙のそれよりも極めて簡略になるものがあり、そのままでは何人が出したか明瞭に致し難い程の書状もある。この点に就い…
尚これに類似して、多少相違した点を具えたものがあり、又上の図版に示すが如く、折紙とこの特別な封式とが混合したもの等数種ある。 (略) この文書は、(天正十二年)五月五日、伊勢長島城に居った織田信雄から、尾張竹鼻の不破源六広綱に充てたもの、先づ…
封じ目の後は残っているが、如何に封を加えたか、具体的な点は明らかでない。然し料紙の左方封紙に代用した紙面の上下が、約三分一づつ失われているのは、この失われた紙は、その紙の右となったところを上下縦に切って、上下に折り込んで封を開くと封じ目が…
又かかる料紙の折り方をし、而もその料紙を切らず、その一部を封紙に充てて、封を調えるものもある。之を図版(第一三七図)に示すと、左の如きものである。(略) この文書は、陸奥三春の田村清顕が、同国白河の白川晴綱に送った書状である。図に現れた横の…
この横ノ内折の場合には、上包の封の仕方にも特色をもっている。上包の料紙で本紙を包んだ後、上包が本紙の文よりも余るが、この余った部分を、上下共に裏へ折り返し、その折り返したところを、紙縒で結ぶ、ここまでは先に述べた折封と同様である。然るにこ…
かように折り畳んで、その上に上包の紙を懸けて封が施してある。最初料紙を横に内側に折ることが特色であるから、これを特に料紙の横ノ内折と称して置く。この横ノ内折は、二筋或いは三筋に折ることがある。この折り方に調えた料紙は竪に細く切ったもの計り…
さてこの文書の形状を子細に観察すると、竪に長いことに気付かれるであろう。これは料紙を竪に切って用いているのである。更に紙面の中央を注視すると、横に折った筋目のあることにも気付かれるであろう。これは文字を書き署判を終えて、料紙を折る時に、先…