長文の鎮西下知状

なお鎮西下知状の一例を示すと、〔一四九〕の如きがある。この文書は、元徳元年十月五日、薩摩日置北郷弥勒寺庄下司眞忠と一方地頭島津宗久代官道慶との同郷内吉利名の相論に対して下した下知状である。文中に島津家の初祖忠久が薩摩伊作庄地頭職拝領の事、…

鎮西下知状或いは博多下知状

下知状は、鎮西探題からも出している。上の図版に挙げるものはその一例である。 薩摩国伊作庄地頭下野彦三郎左衛門尉忠長(久長)代行長申小船壹艘事、 右如訴状者、当庄住人弥平五以下輩、対同国市来院住人志布志入道、令借用小舟壹 艘之處、件船於海路破損…

佐藤進一氏の「鎌倉幕府訴訟制度の研究」に據る

なお下知状は、裁許状として出る計りでなく、禁絶すべき事項を衆庶に知らせる禁制として出ることもある。〔一四七〕はその一例、文保三年三月十六日、高野山金剛三昧院領播磨在田上庄の殺生禁断のために出した下知状である。内容は異なっても、書式に異なる…

所領充行は下文下知状、所領安堵は外題安堵

この規定が何時成立したかは判然としない。然るに嘉元元年即ち将軍久明親王、執権の師時、連署の時村の時代から、安堵の手続が終了すると、安堵下文、下知状を別に下さず、此の譲状のように譲状の端の余白に、この譲状に任せて領掌して差支なしと云うことを…

譲状の外題安堵

さてこの譲状の端に別筆で四行大書してあるのは、将軍家の外題安堵、或は外題安堵状とも申すものである。外題とは当該文書にその申立に対する指令を記したものをいう。元来御家人は生前にその所領を男女の子息等に処分して置くのが当時の慣習であった。若し…

譲状の外題安堵状

「(外題)任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、 元亨二年十一月廿日 相 模 守(北条高時)(花押) 修理権大夫(金澤貞顕)(花押)」 ゆつりわたす、あきのくにをわさのほんしやうえたむらのうちをゝつかめかはらを は、わうくまにゆつりたひ候ぬ、よのこ…

承久以前は日下、承久以後は日附の次行

この下知状の書式は、承久以前のものに於いては、奉者が数人で連署する場合、その中の一人の位署は、必ず日下に加えてある。承久以後のものに於いては、執権単独一人の署判でも、執権連署の連判でも、日附の次行に位署を加えているのが通例である。この点を…

裁許の「御下知」にあわせて下知状と呼ぶこととする

右に挙げた二様の文書の出ている場合を通観すると、将軍家から将軍の袖署判の下文、もしくは政所下文を出すものに代えて出している。従ってこの点においても、この種文書は下文と密接な関係がある。かように下文と関係があったうえに、第一種のものは既説の…

下云々の一行がなく、事書から始まる下知状

右の文書は、前項に挙げたものにある始めの下云々の一行を欠き、直ちに事書から書いてある。終りの部分の書式は前項に挙げたものと全く同じである。之も旨を奉って出した文書である。即ち執権北条義時が尼将軍政子の仰を奉じて出した形式のものである。 この…

新補地頭の濫妨をとどめる下知状

なおこの下文と称する文書に連関して更に説くべき文書がある。 下知状第二種 可令早停止為阿波国櫛淵別宮地頭秋本二郎兵衛尉代官背庄務擇取神民相伝能田濫 妨農業事、 右、如訴状者、為新地頭秋本二郎兵衛尉代官擇取神民等相伝之能田、号地頭分令領 作之間、…

当時下文と称していたが、明らかに相違がある下知状

右三通の文書は、叙上の如く細かい書式には多少相違したところがあるが、大体同様のものと見做して差支えない。書出しの部分は全く下文と同じであるから、この点を重視すれば当然下文と称すべきものであり、当時左様に呼んでいた。ただし将軍の仰に依って云…

奉行衆と執権・連署の下知状

〔一三九〕に挙げたものは、建永元年七月十四日、鎌倉幕府の奉行衆が実朝の仰を奉じて出した文書であるが、書式は先の時政の奉じたものと大体同様で、唯異なる点は書止めに下知如件とある上に更に以下の二字が添えてあることである。また〔一四〇〕に挙げた…

下文の形式と同じ、書止めのみ異にする下知状

第四類 下知状 第一種 武家下知状 下 加賀國井家庄地頭代官所 可早且停止自由狼藉、且致撫民計、従領家御下知事、 右當御庄者、重役異他御庄也、而地頭代官以新儀非法為業之間、土民不安堵、公物 難済之由、有其訴、早停止自由之狼藉、任先例可致沙汰之状、…

下知状と下文変形文書

叙上下文の一項を立てて、官宣旨に系統を引く下文の各種形式のものを順次説明して武家の袖判の下文に及んだ。この系列の中に於いて、袖判を加えた下文の出現は、書式の上に於ける著しい変化ではあるが、尚書き出しに下と記し、その下に充所を記している。従…

古い形式の文書の復活を試みた大内氏

以上は足利将軍家に関することであるが、将軍家に倣ったものであろう、管領守護人の中にも、この式の下文を出す者があった。まず〔一三六〕に示したのは、貞和三年(正平二年)十月十九日、高師直が、山中辨房に武蔵国男衾郡内形田郷四分一を与えるために出…

足利将軍家最後の袖判下文

ただし、直義の下文には所領安堵に限らず、他の場合のものもあった。尊氏のものに至っては安堵の場合のものはまず現存していない。また直義の下文の書式は、最初からここに説いている書式の下文を出したのでは無く、直義の地位の向上するに従って、この書式…

所領充行(あておこない)は尊氏、所領安堵は直義

なお当時所領安堵のためには、尊氏から下文を出さず、直義がこれに代わって出していた。而してその下文の形式は、尊氏の下文と同じものもあった。足利氏が鎌倉の将軍家の下文と同じ形式のものを出していたことは、注意すべき事実である。しかるに尊氏直義の…

北条時行の乱の勲功賞としての下文

鎌倉幕府の滅亡後、この式の下文は如何になったかというに、足利氏に於いては、先代の時の如く引続きこれを用いている。即ち〔一三四〕に示した如く、元弘三年十二月廿九日、尊氏は安保光泰を信濃国小泉庄内室賀郷地頭職に補任するためにこの式の下文を出し…

宮将軍の下文と間違えられる北条・足利氏の下文

更に下って足利氏の如き、鎌倉時代に於ける守護人として有力であった者も、将軍并に北条氏と同じ形式の下文を出している。〔一三三〕はその一例で、嘉元三年八月十四日、尊氏の父貞氏が粟生四郎入道等に、三河国額田郡内秦梨子郷司職を従前の如く領知せしめ…

将軍家は地頭職、北条氏は地頭代職を補任

次に〔一三〇〕は、寛喜元年七月十九日、将軍藤原頼経が、常陸国の御家人真壁時幹をして、その父友幹の譲状に任せ、その遺領を襲領せしめるために出した文書である。当時かかる所領を襲領すべきことを許す文書を安堵の下文と称した。頼家以後に於いては、こ…

現存最古の源頼朝袖判下文

この書式の下文は、頼朝が未だ公卿に任ぜられなかった間に出したもので、公卿となってからは、政所下文を以ってこれに代えたことは、すでに述べた通りである。而して次の頼家・実朝と源家三代から、頼経・頼嗣藤氏二代の将軍、みな公卿に列せられない間は、…

源頼朝の伊勢国波出御厨宛、袖判下文

第五種 武家下文 (花押)(頼朝) 下 伊勢国波出御厨 補任 地頭職事、 (異筆)「左兵衛尉惟宗忠久」 右件所者、故出羽守平信兼党類領也、而信兼依発謀反、令追討畢、仍任先例、為令 勤仕公役、所補地頭職也、早為彼職、可致沙汰之状如件、以下、 元暦二年…

少貳氏の守護所の下文

第四種 大宰府守護所下文 筑前豊前肥前壹岐対馬の守護職を持っていた少貳氏が、その守護所から牒を出していたことは、既に牒の条で記述したところであるが、同じ所からまた下文を出している。〔一二八〕に挙げたものはその一例で、嘉禎四(暦仁元)年十月卅…

北畠顕家、庁宣でなく袖判の下文を出す

なお建武中興以後、陸奥の国守に任ぜられた北畠氏の下文は、右の書式をとっている。すなわち同氏は庁宣を出さず、専ら袖判を加えた下文を出している。これは後項に説く武家の袖判の下文とも同じ書式を具えている。〔一二五〕に挙げたのはその一例で、建武元…

武人の出身で地位が低かったので庁宣でなく下文

要するに国司にあらずして、国務を奉行する即ち領主が、袖判のみを加えた下文が、すでに鎌倉時代の始めに現れているのである。しかしかかる場合、国主たる源惟義が袖判を加えて、守大介の署判無き、すなわち前項にその実例を示した庁宣をなぜ出さなかったか…

国司ではなく国主の袖判の下文

第二種 国領主下文 国司の庁宣に国の領主が袖判を加えたものが現れてから、従来の守大介の署判が全く無くなったわけではない。またその署判が無いものでも、署判だけを闕いた位署は、文書の形式上必ず書いてある。従って国の領主の袖判のみで、守大介の署判…

庁宣(ちょうせん)は、広義の下文扱い

〔一二二〕に挙げたのは、鎌倉時代においても、なお袖判と大介の署判との二つのある例。嘉禎三年五月、長門国主藤原為長が、留守所をして、同国赤間関阿弥陀寺の供田十二町を不断念仏用途に充てしめるために出した庁宣である。 〔一二三〕は、延応元年十一月…

国の知行主が袖判を据える

次に 国司の庁宣にして袖判を加えた文書は、かなり多く伝わっている。管見では〔一二〇〕に挙げた応保二年三月七日附、下野国司から留守所に下した文書が初見である。以後鎌倉時代に入ると、袖判の無いものは稀となり、袖判のあるのが通例となっている。 こ…

最初期の袖署判下文

第三式 袖署判下文 袖署判の下文には、差出所記入式のものは極めて少ないから、便宜非記入式との区別なしに列挙することとした。 第一種 大宰府諸国司庁宣下文 〔一一九〕に挙げたものは、寛治三年九月廿二日、筑前国雑掌に充てて出した下文であって、これが…

署判が日下の場合、日附の次行より謙遜を表す

第二種 武家下文 〔一一六〕は、建久六年正月十一日、北条時政が肥後阿蘇社司神官に下した文書である。これは下署判ではあるが、細かくいえば署判が日附の次行に加えてある。さらに〔一一七〕は、正慶二(元弘三)年閏二月十九日、薩摩守護島津道鑑(貞久)…