2022-06-01から1ヶ月間の記事一覧
院宣は綸旨のように、院司が奉じて発する奉書の一種である。書止めや充所等が、充名の人の身分等に依って種々に変化することも一般の奉書の場合と同様である。 尚院宣の先の者は、といへりと訓むべきであるが、ここでは下の文章に懸けて、「てへれば院宣此の…
第三種 院宣 (略) この文書は、後嵯峨上皇の院宣と申すもので、充名の権別当法印は、石清水八幡宮祠官の田中行清である。その大意は八幡宮の末社周防遠石別宮領の得善保の地頭職に対する国司の妨を止め、元の如く宮寺の支配となすこと、但し新大夫局と申す…
即ち親王方の局から出る奉書も禁裏のものと同じように申していたのである。尚右の正親町天皇の女房奉書にも、同様伝奏の副状が伝わっているが、これは便宜副状の項に収めることとした。とのことです。
〔二七八附録〕に収めたのは、この時の伝奏庭田重保勧修寺晴豊連署の副状であるが、その中に女房奉書此の如しと申しているのは、右の奉書をも指すものと思われる。とのことです。
この女房奉書と同じ形式で親王の局からも奉書が出されている。即ち〔二七八〕に挙げたものは、同じく右の和睦の御礼を陽光院誠仁親王に奉ったのに対して、宮の局から出された奉書である。とのことです。
尚〔二七七〕は、同じく正親町天皇の女房奉書、天正八年信長と石山本願寺との和睦が、禁裏の御斡旋に依って成立したが、その御礼として本願寺門跡顕如から、沈香と紬とを進上せるに対して答えさせられた奉書である。とのことです。
中世に至って甚だしく荒廃したが、ここに漸く復興を見るに至ったのである。文中信長を右大将と書いているから天正三四年のことである。この女房奉書は可成り長文であるが、二行づつ上下高さを違えて書き連ね、散し書きの式をとっている。とのことです。
信長の尽力に依って復興したので、信長が特にこの女房奉書の袖に印文「天下布武」とある朱印を捺しているものと思われる。神泉苑は弘法大師以来、朝家の為祈雨の御祈祷を修する極めて由緒あるところであった。とのことです。
次に〔二七六〕に挙げたものは、正親町天皇の女房奉書である。織田信長の上洛に依って、荒廃せる京都神泉苑が復興した。よってその苑地が田園化して年貢等を徴収していたが、以後これに関する訴訟は一切之を停止し、先規の如く掃除等、東寺から申付くるよう…
部類〔二七五〕に挙げた女房奉書は、同じく後奈良天皇御代のもので、三十六人家集の冊子を、石山本願寺の門主光教(証如)に賜った時に下した文書である。この家集は平安時代末期、善美を尽くした料紙に、当時発達の極致に達した草仮名を以て書いたものであ…
さて図版の右端に「仰天文十三 九 廿三」とあるは、本紙の右の端裏に、別筆で書いた文言である。これは封を施す前にこの文書の内容に関した事務を取り扱う長官即ち上卿が書き加えたものであろう。この奉書には年附は勿論月日も書いて無いから、何時のもので…
従ってその書止めが、第二紙の中央の上部に終わることもあり、文章の長短によって、左右に寄ることもある。尚文章が長い時には両紙の上部中部下部の余白まで書き入れることもある。第一紙と第二紙は継いであるものではなく離れているものである。書き終わる…
而して室町時代の女房奉書になると大体その配列にきまりが生じている。先づ本紙の右端に余白を可然置いて書き始め左端に及んで、右端の余白の下部に戻って書き、更に右端の上部に戻って、その余白に書いて左に移って終わりとなるのである。とのことです。
女房奉書は、料紙一枚に書く時もあるけれども、大抵の場合は二枚に書いている。図版に示したものは之に当たる。その文字の配列が一種特別のものである。元来女房即ち婦人の消息は仮名交じりで、散らし書きと申し、行を追って書かずに散々に書き配って全体と…
その古いものは鎌倉時代のものから伝わり、室町時代に至って最も多数伝わっている。長橋局勾当内侍がこの奉書を書いて出したもので、女房の書いたものであるから女房の奉書と申したのである。室町時代頃には綸旨と共に叡旨を伝える文書として重きをなしてい…
さて内侍は勅旨を伝えることを司っていたのであるが、その勅旨を文書に書いて伝えることになり、その文書を内侍宣といった。それに就いては既に前部に於いて説明をした。後に至って内侍が右図版の如く勅旨をかくの如く仮名書にして伝えることが始まった。と…
心経とは畏くも天下泰平五穀豊穣を祈念あらせらるる為に、宸翰を染めて、六十六箇所の一宮等に納め奉らんとせられた肥後国の分である。今この御経は阿蘇社の別当西巖殿寺に伝えられ、国宝となっている。因みに他の国のもので今日に伝わっているものに、三河…
第二種 女房奉書 (略) この文書は、日野(烏丸)中納言光康に賜った後奈良天皇の女房奉書である。光康をして肥後に下向せしめ、阿蘇大宮司惟豊に、彼が従三位に叙せられたに就いて禁裏の御修理料献納を促し、尚心経を阿蘇社に納めさせらるる勅旨を伝えしめ…
また書止めに近く、者てへれば、或いは何々の旨、何々の由、天気候ところ也等と書く定めであるが、その時天気と云う言葉は、必ず改行して行の始めに書き表すこととなっている。之を平出という。之も如何なる言葉に対して致すべきか公式令に定めてある。との…
綸旨の文中、天皇の思召という意味を綸旨、或いは天気と表す。而して書始めに「被綸旨偁」即ち「綸旨を被るに偁(い)ふ」と書くのは荘重な書き表し方である。この時には綸の字の上一字をあける。之が闕字であって、敬意を表すべき文言に必ずなすべき書礼で…
次に〔二七四〕は、元亀三年二月二十一日附、正親町天皇綸旨、伊勢慶光院主周養上人は、大神宮造営勧進に尽力したのであるが、この綸旨を以て清順上人の時の例に任せ、その仮殿造営料を諸国に奉加即ち募ることを聴されたのである。料紙は宿紙を用いている。…
次に封紙はこの本紙礼紙を重ねて巻き畳み、之を包んで上下を折って縒りで結んだのである。今縒りは伝わっていない。此封式を折封と云う。形態が完備して伝わる綸旨の立派な一例に挙げることができる。尚之は平の武人に賜った異数の綸旨の一例である。とのこ…
料紙は宿紙であるが、正式のものでは無く、薄墨色に刷毛で塗ったもので刷毛目があらわに見えている。本紙一枚の外に文字の書いてない紙一枚が添えてある。之が即ち礼紙と申すもので、鄭重な儀礼を表しておるのである。とのことです。
尚室町時代以後に於ける綸旨の一二を挙げるに、〔二七三〕は、天文十三年四月廿日附、後奈良天皇綸旨、勧修寺尚顕を勅使として越後に下し、同国静謐并に豊年を御祈念あらせらるる為に宸翰を以て書写せられた心経を同国一宮に納めらるる思し召しを、長尾晴景…
以上記述したところに依って、書札様の文書に於ける書式の相違が、如何なる意義を持っているかを充分了解せらるるであろう。 従来勅命を伝える文書としては、詔勅宣命があり、又宣旨、口宣案の如きものもあった。この綸旨は、個々の者に充てて勅命を伝宣する…
尚当時の武人総べてに充名の無い綸旨を賜ったのではなく、時に〔二七二〕の如きものもある。之は元弘三年四月一日、船上山から陸奥の結城宗広に義兵を挙げんことを促さるる為に下したものであるが、充所を具えている。之は宗広に対して特別の待遇を示された…
要するにこの新しい書式は、下々の武人に直接綸旨を賜わせられた事情と密接な関係のあることを銘記しておかなければならない。而して室町時代に及んでも、直接武人に綸旨を賜ることは異数とされていたのである。とのことです。
然るに前述の如く、後醍醐天皇并に後村上天皇の綸旨を直接武人に賜わせられたことは、誠に特別の思し召しの存するところと拝される。即ち天皇一統の御政治をみそなわせられたから、綸旨も直接武人に下さるることとなって、ここに従来見ない綸旨の新しい書式…
吉野時代を通じて京都から直接平人に賜ることは無かった。今日偶々武人に賜った書式のものが一二伝わっているが、それは後世編纂した系図に引用してあるもので、真偽疑うべきものである。正しい文書で伝わるものは先づないのである。とのことです。