2024-09-01から1ヶ月間の記事一覧
右に挙げた印判状の書式は、始めて現れてくる信長の朱印状に具わったものとして注目すべきであるが、甲斐武田氏、越後上杉氏に於いては早くから之を出し、殊に天正年間景勝の出したものが多く伝わっている。〔五五〇〕はその一例で、家臣発智六郎右衛門尉に…
此等の外、伝馬専用と思われる朱印、或いは「實」の一字を印文にした小形の黒印をも用いている。然し何と云っても「天下布武」四字の朱黒両印が信長の重要な印であった。天正十年信長の仆れた後、その子信雄は之と同じ輪郭の中に、「威加海内」の四字を印文…
この後信長は、右と同形のもので黒印としても之を用い、朱黒両印を併用している。この両印は天正十年信長の仆れる迄継続して用いている。この間に天正四年信長が右大臣に任ぜられて、後に図版に示す如く、降り龍二匹を以て、「天下布武」の四字を囲んだ朱印…
信長は最初に用いた印を、元亀元年正月から同年三月の間に廃めて、印文は同じであるが、輪郭が二重になり、その下部を少し切った形のものを用い始めている。即ち上に挙げる朱印状に捺してある印が之である。 (略) 大徳寺并にその塔頭及び門前に対して、徳…
然し信長がかような印を用いるのに至ったのは、三河以東諸国大名が盛んに印を用いていた影響に依るものと思われる。信長は翌永禄十一年九月、将軍足利義昭を奉じて上洛したから、東国の西端から起こった信長の印判状が、京都を中心にして近畿地方にも及ぶこ…
信長はこの年八月、隣国美濃に齋藤龍興を攻めて、その居城稲葉山を陥れて之に移った。この戦捷の結果、急々天下に武を布くべき機到来せりと信じて、この印を用いたものであろう。政秀寺記に依ると、この印文は同寺住持にして信長の尊信を受けていた禅僧澤彦…
〔五四九〕は、三河の隣国尾張から興起した織田信長が、永禄十年十一月、家臣兼松又四郎に知行を充行うために出した印判状で、信長と実名を書いた字面に、輪郭一重楕円形の中に印文として「天下布武」の四字を二行に表した朱印が捺してある。この日附で知行…
更に例示するに、〔五四八〕は永禄三年九月、三河苅谷城主水野信元が、尾張野間大御堂寺の大工職に関して、同寺に向けて出した印判状で、信元の字面に、直径二寸三分ある大きい朱印が捺してある。信元の二字が大きい印影の中央に入っている。印文は「信」の…
更にこの部類に入る印判状を示すと、 (略) この文書は、相模津久井城主内藤康行が、同郡串川村の光明寺に対して出した安堵状であるが、康行の実名の下に白文の朱印が捺してある。在家の者にして白文の印を用いているのは珍しい。当時に於ける禅僧の私印と…
本文書止めは、「仍執達如件」で結んであるが、かかる例は余り多くない。単に「仍如件」、或いは「状如件」と表すよりは鄭重な書き方である。 次に本文書止めを「如件」で結んだ例に、〔五四七〕の如きがある。氏親は成年に達した後も先の黒印を用い、更に之…
龍王丸の名が示す如く、氏親は未だ幼稚であって、実名が無く従って花押を具えていなかったのであるが、その家の当主として文書を出すべき地位にあったところから、その文書に花押の代わりにこの黒印を捺したのであろう。この後元服して氏親と称してkさらも…
龍王丸の下に黒印が一つ捺してある。武家の人で印を文書に捺した早いものとしては、文安頃上杉憲実が、その道号「長棟」の二字を印文にした印を、置文(遺言状)の紙継目裏に加えたものがある。然しこの印はこの置文に見えるのみでその来歴がわからぬ。それ…
第二種 直状複合式印判状 直状複合式印判状とは印のみを差出所に表したものでは無く、印以外に官途名字等をも表した印判状を称する。これは日附の行に捺印したもののみである。今説明の便宜上、之を数式に分け、先づ、 い式 日附が年月日から成り、差出所名…
次に〔五四六〕は、右と時代が前後するが、秀吉が天正十五年六月一日、石山本願寺から九州在陣を見舞えるを謝し、その平定の状況を報じたものである。日下に秀吉の朱印が捺してあるに過ぎないが、本文書止めに「恐々謹言」と、充所の敬語は、「殿」と書いて…
事実高虎は大坂方に内応していたのでは無いのに、かくの如き印判状を送って、東軍将士の間に疑心を起さしめ、その結束を攪乱しようと図ったものである。かような文書であるが、日下に印を捺し、本文書止めに「謹言」の例文を、充所の敬語を「殿」と書き、当…
なお右と同じ形式の印判状に〔五四五〕の如きものがある。慶長十九年大坂冬の役、城内にあった秀頼から藤堂高虎に送ったもので、高虎が秀頼に内通し、家康秀忠を誘って大坂に出陣せしめたのは誠に満足である。この上は兼ねての約束の如く、東軍の中から裏切…
なお、この文書に就いて注意すべきは、封紙が存し、その差出所に道号が書いてあることである。之に依ると、書札様の文書で、日下に花押を用いた場合に於ける本文と封紙との差出所の形式と相一致している。之に依って見るも、かかる文書に印を捺したことは、…
なお〔五四三〕に挙げたのは、慶長十四年家康が島津家久の琉球の領知を認めたが、之に対して家久の挨拶を致せるに答えるために出した印判状、日下に「恕家康」の黒印が捺してある。 以上は本文書止めに、「何々也」と結んであるが、〔五四四〕に示した古河公…
なお将来一年に五度十度かかる船が渡来しても差支えない。漂到した寄船でも妨ぐることをしない。白糸を買上ぐるは単に商売が目的でなく、日本にかかる貿易船の到着することを誘引するためである。然し白糸の取引は奉行の下着以前勝手に行ってはならない由を…
信長秀吉の印判状に、此部類の書式をとったものが極めて多く伝わっている。大抵広く各方面の者に向かって与えたもので、本文書止めは「何々也」で結んである。今秀吉の朱印状の一例を図版に示そう。 (略) この文書は、島津氏分国片浦に黒船が着岸し、舶載…
独り上杉家に限らず、数種の印を併用している者の間にあっては、条書条目には、私印の類に入る印を捺すのが通例であった。 〔五四二〕に挙げたのは、(天正七年)九月十七日、武田勝頼が上杉景勝に送った条目で、之と共に症状をも送っているが、三条から成る…
日下に捺してある印は、謙信が元亀三年頃から用い、景勝も之を襲用した朱印で、高さは一寸二分五厘、横は一寸三分あり、印文は、「阿彌陁、日天、辨才天」と謙信の信仰の対象となった名号である。この印は願文等にも捺してあるが、上杉氏の印判使用の掟に依…
第五条の付に、織田信長、徳川家康が、武田勝頼の兵を三河長篠に於いて大いに敗り、敵を討捕りし頸註文、即ち戦捷の実状を謙信に報告したことが附記してある。かような条目は、之を持参した使者が口上で敷衍したためか、簡単でその意味の了解に苦しむものが…
右に挙げた印判状の本文書止めは、皆「如件」となっているが、かかる書止めを具えていない条目、条書と云うものに、この部類に入るべき印判状が多くある。これにも重要な史料となるものが少なくない。今その一例として図版に示すと上の如きものである。 (略…
日附の上部に、氏政の用いた縦七分八厘、横八分二厘、重郭、印文「有效」の朱印が捺してある、この文書と同じ年の天正十三年頃から用いている。右の印判状の追而書に、御出馬中であるから、御隠居の封判を押すとあるのは、氏直が上野に出馬し、その許に虎ノ…
郷村に依って集合する地点は異なっている。又この印判状を受けた酒勾郷は、街道に沿っており、且つ酒勾川右岸の村であるがために、伝馬と川越との用務を勤むべき者は、郷村に残ることになっている。この命令に依って分国庶民の総動員を行い、北条氏は此頃か…
男子は十五歳以上七十歳迄の者が全部弓鑓鉄砲の武具を持参して出頭すべきこと、郷村に残るべきものは右の年齢以外のものと、定使陣夫とかねて役目を以てをるものたるべきこと、出家の者即ち僧侶も、志に依っては参加してもよろしきこと、特に意を用い武具を…
右の印判状と同じ書式のものとして〔五四一〕に挙げ(た)文書は、(天正十三年)七月廿二日北条氏が、分国内郷村の庶民を廿日間民兵として使役するために出した徴発令である。ここに挙げた印判状は相模足柄下郡酒勾本郷に充てた(も)のであるが、他の郷村…
陣中から帰参する人夫飛脚は、文中に捺してある正圓の朱印を捺した手形を持参すべく、それに依って関宿渡の通過を許すこと、在所から陣中に赴くものは、一切検査しなくてもよろしいという二箇条が示してある。戦陣に於ける通行取締の掟として注意すべき史料…
は式 日附が月日から成り、充所を具えたもの この部類の印判状は、前掲二式のものよりも遥かに数多く伝わっている。先づ上の図版に示すものはその一例である。 (略) この文書は、天正二年北条氏政が、関東公方の根拠地下総関宿城を攻めた時、旗本の検使二…