2024-11-21 秀吉が関東小弓御所足利義明の子頼淳に充てた書状 更に〔五七七〕に挙げたのは、(文禄二年)二月廿八日、秀吉が関東小弓御所足利義明の子頼淳に充てた書状である。秀吉が頼淳の子国朝を古河公方義氏の継嗣としたのであるが、国朝は文禄二年秀吉の肥前名護屋の陣営に加わろうとして出発したが、途中安芸国に於いて病死したので、頼淳の見舞を謝すると共に子息の死去を弔うためにこの書状を送ったのである。充名の頼淳が、関東に於いて地位の高かった武家の人であったから、本文書止めに「恐々謹言」の文言を用いたのである。とのことです。