2025-01-01から1年間の記事一覧

東巌慧安(宏覚禅師)の蒙古降伏表白

第四類 表白 祈願の意趣を書き、次いで咒願文を副えた願文を表白と云う。咒文のみを表白と云うこともある。右に掲げた文書は、賀茂正伝寺の東巌慧安(宏覚禅師)が、文永七年五月廿六日、かの蒙古襲来の風説を耳にし、兼ねて之を攘い除かんがため、八幡宮に…

御諱は宸翰を染めさせられた後陽成天皇の御都状(とじょう)

〔七一七〕に挙げたものは、後陽成天皇の御都状で、文中の御諱は宸翰を染めさせられたものである。〔七一八〕は、平安時代に於ける都状の一例、藤原為隆が息災延命一家萬福を祈るために出したものである。〔七一九〕は、後陽成天皇の御都状と同じく土御門家…

土御門家に伝わる都状の正文

第三類 都状 願文の一種とも見るべきものに都状がある。之は寿命延長を祈請するために泰山府君を祭る時に奉る祭文である。既に平安時代から泰山府君を祭る信仰が行われ、之がために作った都状が朝野群載に収めてある。もちろん当時の正文は伝わっていない。…

中世室町時代に及ぶと願文も次第に書札様となっていく

〔七一五〕は山内上杉憲政が、小田原北条氏を討滅して同家勢力の復興を、鹿島神宮に祈請するために作った願文、日附の次に充所に当たるものを書いているのは注意すべき書式である。先に挙げた願文類には書札の如き書式をとったものは無い。之が願文の通例で…

関東管領足利持氏の血書の願文

次に願文としてその形様の著しく異なったものとして、左の如きものがある。 (略) 将軍足利義教と関東管領足利持氏との間は円満で無く、義教は機会あれば持氏を仆さんとし、又持氏も義教に心服するところが無かった。この願文は、持氏が敵意を持つ義教の攻…

伴信友が写した東寺に伝わる足利直冬の宣命体の願文

以上造立供養の願文の諸例を一二挙げたが、単に祈請のために捧げた願文の例を示すと、〔七一三〕は中院定平が、天下泰平万民王化に帰せんこと、即ち後醍醐天皇の一統の御政治の実現を、観心寺本尊に祈請するために奉った願文、〔七一四〕は足利直冬が正平十…

胎蔵界百八十尊の種子と金剛界三十七尊の種子を刻んだ高野山の石塔婆

更に造立供養の願文の一例を示そう。 高野山には古く弘法大師が同山の参道に造立したと称する木札の卒塔婆があり、其れが鎌倉時代の中頃汚損したので、遍照尊院覚斅が勧進し、上は後深草上皇を始め特に関東幕府の重鎮秋田城介泰盛の奉加に依って、参道壇上よ…

摂政九条兼実の南都寺院復興の願文

次に時代が降って造仏願文の一例として、左の如きものもある。 (略) この願文は、摂政九条兼実が興福寺南円堂を再建し、大仏師康慶をして不空羂索等の仏像を造らしめ、其胎内に仏舎利、書写の経文を納めて供養した時の願文である。料紙は紺紙を用い、罫線…

延暦十七年文室長谷外三名連署の願文

なお悲母が生前果たさんとした造仏写経料田施入の遺志に依り、その没後子息等がそれを果たした時の供養願文に〔七一一〕の如きがある。之は延暦十七年八月廿六日、文室長谷外三名連署の願文で、東南院文書の中に伝わるところから、恐らく造仏写経を行い、之…

天長十年九月の御願文の紙継目裏毎の花押は平安時代末期以後のもの

又字面に間隔を置いて手印を加えられた点は、常時通用していた印に近い性質を思わせるが、末尾の起請の詞と相応じて、御願文に記された御意趣を強烈に表明する御手段として、御手印を加えさせられたものと考えることができる。かくこの御願文は、手印の最古…

今日伝わる最古の天長十年の御手印

遥かに時代を遡った願文の一二を示すに、〔七一〇〕の如きがある。これは桓武天皇の皇女伊都内親王が、天長十年九月廿一日御生母藤原平子の御遺志に依り、その菩提を弔うために、興福寺に香燈読経料を納めたまえる時の御願文である。世に橘逸勢の執筆せるも…

天子とあるのは令義解によるものでことさら在位を強調したためではない

御料紙の切紙は、蓋し吉野山中御艱苦の間に御意のままに之を得させ給わなかったに依るものと拝し奉る。なおこの勅願文を納められたのは、高野山の勢力を頼ませられ、これを招く思し召しのあったことにも依るであろう。日下に天子と、その下に御諱を書かせら…

東寺塔御供養の勅願文と比べ極めて粗末な料紙の高野山鎮守天野社宛後醍醐天皇御願文

次に単に祈請せらるるために出された御願文を挙げるに、次の如きものがある。 (略) 後醍醐天皇は延元元年十二月廿一日、京都を出で廿三日大和吉野に遷幸あらせられ、廿九日この御願文を紀伊高野山鎮守天野社に納めて天下静謐を祈らせられ、御願成就の上は…

願文は文章道の人が作成し世尊寺家など能書の者が清書する

願文の書式としては、右に挙げた勅願文の如く先づ敬白と書き、次に仏事作善の事々を列挙し、之を終えて行を更めて右云々と願意を詳細に書き、謹みて敬白する意味のことを記して文を終わる。次に日附を書いて、日下に願主が位署を加える。大体かくの如き形式…

建武元年皇帝「尊治」(宸筆)の勅願文

第二類 願文 仏事を修して祈願の意を敬白するために作る文書を願文と云う。なお儀礼を整えて仏事を行わずして、単に願意を神仏に祈請するために奉る文書をも願文或いは願書と称している。 〔七〇九〕に挙げたものは、後醍醐天皇が建武元年九月廿一日、石清水…

源頼信の家系が陽成天皇から出たように記す河内誉田八幡宮に奉った告文

古い時代の告文に当たるものは、正門として伝わるものがない。石清水八幡宮別当田中宗清は、鎌倉時代の初期に、同宮草創以来、天皇上皇門院を始め奉り、諸家諸人から同宮に奉った宣命告文類を書写して、之を告文部類と題し二巻にまとめて後世に伝えている。…

永正七年大和多武峯鎌足公の御体破裂等の怪異を祈謝する告文

〔七〇六〕に挙げたのはその一例、保安四年七月朔日、白河法皇が山門の衆徒の擾乱静謐を諸社に祈請せらるるために奉らんとしたものである。この御告文の奥書に依ると、山徒の妨害に依って院使を発遣することができず、実際に於いてはこの御告文は草案として…

書き止め文言「恐美恐美も申給くと申」の天暦六年二月八日の告文

第六部 神仏に奉る文書 この部に於いては、神仏に奉るために出した文書を類別してあげる。 第一類 告文 神祇に対して祈請の意を表し奉る文書に告文がある。神前に於いて宣読し奉る宣命も告文と称している。ここに挙げる一例は、朱雀上皇が石清水八幡宮に、天…

卜筮の結果その吉凶を記して依頼者に差し出す文書、筮書

第二七類 筮書 卜筮の結果その吉凶を記して、依頼者に差し出す文書を筮書と云う。〔七〇四〕は天文十一年五月梅北道人と申す者が或る人に上りし筮書、〔七〇五〕は、慶長九年正月元佶が、毛利輝元が長門萩に築城せる時、その吉凶を卜って、その結果を欠いて…

禅僧が印を一般の文書に捺すようになったことを示す円覚寺黄梅院華厳塔再建勧進のための勧縁疏

上に図版に掲げたものも勧進帳の一種である。本文は便宜〔七〇三〕に収めてある。至徳四(元中四)年五月、義堂周信が、円覚寺黄梅院華厳塔再建の勧進のために作った勧縁疏である。料紙は罫紙を用いたところもあり、上下に金銀の箔を散し、美しく装飾が加え…

勧進帳は軸を付け表紙を飾り装幀を立派に整えるのが通例

第二六類 勧進帳 勧縁疏 寺院の造営修理のために、その費用の寄附を募るに当たり、その勧誘文として作る文書を勧進帳、或いは勧縁疏と云う。 〔七〇二〕はこの勧進帳の一例、延文五(正平十五)年七月、僧勧慶が近江常楽寺の観音堂再造の用途を募らんがため…

建武二年東大寺衆徒が嗷訴を起こした時の事書の草案

〔六九八〕は、建武二年十月廿二日、東大寺衆徒が、別当信聰の停廃に関連して、信聰が衆徒に朝敵陰謀のありしことを公家に上申せるを不当として、特に嗷訴を起こした時の事書の草案である。次に〔六九九〕は、建武二年五月二十五日、東大寺造営の勧進の事等…

寺院の衆徒等が上位の者に向かって出す決議文、事書

第二五類 事書 寺院の衆徒等が上位の者に向かって、事を申請する場合、前記申状を出すことは通例であるが、特に強く意志の貫徹を図る形式として、衆徒が群議即ち寄合い僉議の結果たる所謂決議文とも云うべきものを提出することがある。この決議書を事書と云…

天台真言宗の寺院から出す書式と幾分禅宗式の書様が加えられたものの二様ある巻数

次に〔六九七〕に挙げたものは、建徳元年十二月晦日、通恵聖院成助と申す僧が、聖朝安穏天下泰平并に某家繁盛のために長日即ち一年中を通じて修した祈祷の巻数である。巻数には前に挙げた例の如く、或る期日を限って修した時のものと、一年中を通じて修し、…

亀山天皇の御息災延命并に敵国怨敵の降伏の祈祷の巻数

第二四類 巻数 寺院に於いて祈祷或いは護摩を修したる後、これが印を願主に示すために作る文書を巻数と云う。 〔六九六〕は仁平四(久寿元)年正月十四日から二七日、公家の御為めに愛染王法を修した時奉った巻数の案である。解の式の文書となっている。之を…

毛利家文書に天文年間から関ケ原合戦の間に多く伝わる頸注文

〔六九三〕は、降って応仁二年五月八日、安芸の毛利豊元が、京都北小路烏丸に於ける軍功を注進したもの、合戦太刀当注文と書いてある。証判は東軍の大将細川勝元の加えたものである。〔六九四〕は、永禄六年吉川元春が、出雲島根軍白鹿要害并に熊野表に於い…

正慶二(元弘三)年安芸三入庄地頭熊谷直経の合戦手負注文

次に一の合戦に於ける戦功を詳記した例を挙げるに、〔六九二〕は、正慶二(元弘三)年潤二月廿七日、安芸三入庄地頭熊谷直経の合戦手負注文である。同月廿六日河内千早城攻めに従軍し、大手の北堀に於ける戦功を注記せるもの、手負の箇所が詳に表しており、…

証判に「一見了」とあるため軍忠状を一見状と呼ぶようになった

なお日記体に記載したものを挙げると、〔六八九〕は、元弘三年五月十日、播磨大山寺衆徒が、同国の赤松円心(則村)の許に出した軍忠状、則村が袖に証判を加えている。袖に証判を加えるのは、奥に加えるよりはその人の地位が高い事を示しているものである。…

軍忠状は鎌倉時代には現れず元弘一統の合戦から現れ吉野時代のものが最も多い

正しく軍忠状と認め得るものは、鎌倉時代には現れていない。元弘一統の合戦から現れ、吉野時代のものが最も多い。室町時代中期以前に於いては、前記二種の中、日記体のものが多く、中期以後に於いては、殆ど一の合戦に於ける軍功を詳細に記したもの計りであ…

広く見れば軍忠状に入るべき合戦手負の注文、合戦太刀討注文、頸注文

広く軍忠を注進した文書には、各々の合戦に於ける戦功を日にかけて日記体に記したものと、一の合戦に於ける戦功を詳細に記したものとの二様がある。後者には味方の討死手負即ち負傷の状況、或いは敵方を討ち取った数等を詳記してあるので、この文書を合戦手…