なお日記体に記載したものを挙げると、〔六八九〕は、元弘三年五月十日、播磨大山寺衆徒が、同国の赤松円心(則村)の許に出した軍忠状、則村が袖に証判を加えている。袖に証判を加えるのは、奥に加えるよりはその人の地位が高い事を示しているものである。次に〔六九〇〕は、出雲三刀屋太田庄藤巻村地頭宇佐輔景が、名和長年の許に従軍して戦功を立て、その証判を請うために出した軍忠状である。更に長い間の各地に於ける戦功を日記体に記した例としては〔六九一〕の如きものがある。これは、建武四(延元二)年八月、下総の野本朝行の子息鶴壽丸が、亡父に代わってその戦功を注進した軍忠状である。軍忠状としては極めて長文のものである。とのことです。
※〔六九一〕p.452 野本朝行郎党椙本餘一吉弘