2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧

「義元」の二字の印は、父「氏親」の印に倣ったもの

義元の父氏親は、前述の如く、印文未詳の朱黒両印を用いたが、その印の後に、「氏親」の実名二字を印文としたもの、晩年入道して紹僖と号して、印文「紹貴」の朱印を用いた。その子氏輝は夭折した為か、印を捺した文書を遺していない。その弟義元は、「如律…

形状が異なる今川義元氏真父子の「如律令」の印

父子印文は同じでも形状に相違が現れている。「如律令」の印文は、急々如律令を簡単にしたもので、悪魔を除去する意味を表しているのであろう。この印文は、義元氏真の実名にも関係が無く、父子両代の印に共通したものであり、この意味からして、この印を今…

今川義元の朱印「義元」から「如律令」へ

印文の配列が特殊な形式をもつ、即ち「如」一字を上部に、其下に「律令」の二字が並んでいる。前述の如く義元は「義元」二字の印文の朱印を天文五年から用いたが、天文十四年頃から、この氏真の印判状にある朱印と同じ印文で、方一寸七分五厘正圓三重郭のも…

当時極めて大形な、今川家の印として有名な印文「如律令」の朱印

(略) この文書は、義元の子氏真が、駿河富士郡三日市場浅間宮造営の為に、大鋸并に山造の人夫使用を許可する為に出したものである。 料紙は折紙を用い、袖に朱印が捺してある。これが今川家の印として有名な印文「如律令」の朱印である。方二寸四分、重郭…

「承芳」の二字の黒印から「義元」の二字の朱印へ

本文書出しに、「義元」の二字を横に連ねて印文とした朱印が捺してある。 義元は天文五年その兄氏輝が夭折すると、かねて仏門に入っていたが、又同じく出家していた異母弟と家督の相続を争った。その時出した禁制に、その僧名「承芳」の二字を印文とした方六…

連雀商人が軍需品である皮革を転売することを禁止した今川義元の印判状

(略) この文書は氏親の子義元が、連雀商人即ち行商人が、他国へ皮類を密売するを禁止する為に出したものである。之に依ると、駿府の皮作り大井掃部丞をして、そこに来集する商人の荷物を検査せしめ、皮類を隠しているときは、之を注進せしめている。之は商…

朱印状の初見、今川氏親の駿河沼津西光寺に充てた文書

氏親は後にこの印判を朱印として用いている。〔四九六〕に挙げたものは、永正九年三月廿四日、駿河沼津の西光寺に棟別役を免除する為に出した文書で、この印の朱印が捺してある。当時朱印を捺した文書を朱印状という名称は現れていないが、この文書が後に盛…

今川龍王丸(氏親)の黒印の印判状

第一式 袖捺印印判状 先の如く更に之を細別して、 い式 日附が年月日から成り、充所を具えたもの (略) この文書は、今川氏親が杉山太郎右衛門と云う者の忠節を褒し、駿河安部山の内俵峯半分の知行を充行う為に出したものである。 袖に捺してある印は黒印で…

直状印判状は袖判が早く現れている

第一種 直状単一式印判状 奉書式の印判状に於いては、日附の行に印を捺したものを先に挙げたが、ここでは便宜袖に捺したものから始める。これはその資料が早く現れており、説明の順序に便宜を得られることに依るのである。とのことです。

直状単一式印判状と直状複合式印判状

第二類 直状式印判状 直状式の印判状は、更にその差出所の表し方に依って二つに分けることができる。その一は差出所が印を捺したことに依ってのみ表したもの、他は印を捺した以外の例文を加えて表したものである。前者を仮に直状単一式印判状、後者を直状複…

武田氏の駿河清見寺塔頭大中寺に充てた奉書式印判状

に式 日附が月日から成り、充所を具えないもの この部類に入るべきものも余り多くない。〔四九五〕はその一例で、武田氏が駿河清見寺の塔頭大中寺寺内に於いて、造作を破壊する狼藉を禁止する為に出した制札である。 以上にて奉書式印判状の説明を終え、次に…

東国のみならず、島津氏の如く全国的に印判が用いられるようになった

〔四九四〕は天正廿(文禄元)年九月七日、薩摩の島津家から霧島山領を寄附する為に出した所領目録であり、老臣町田久倍が出した形式であるが、袖に方三重郭印文「義久」とある黒印が捺してある。全体の形式から云えば、この部類に入る印判状である。島津氏…

元亀三年十一月武田信玄の高札

形式は大体判り、若しこの文書に破損が無ければ、躊躇するところなく奉書式印判状の初見に挙げ得るもののようである。〔四九三〕もこれに属する一例で、元亀三年十一月朔日、武田信玄が遠江に出陣した時、同国浜名郡橋羽の妙恩寺に出した、軍勢の乱妨停止の…

相州文書鎌倉郡旧家幸右衛門所蔵の印判状

は式 日附が年月日から成り、充所を具えないもの この部類に入るものは余り多くない。その一例と思われるものに、相州文書鎌倉郡旧家幸右衛門所蔵の中にある永正十五年十月廿八日附の印判状がある。之は本文が破損して、充分読み得ないが、北条氏が鎌倉の鍛…

「明聖」の黒印のある本願寺の御印書

本文書止めに、御印を排するとある。即ち寺官が出した形式の文書に門主が袖に印を捺したのである。之を当時御印署と呼んでいる。印の大きさは方一寸六分、印文はおそらく「明聖」の二字であろう。尚本願寺からは楕円形の黒印を捺した印判状をも出している。…

本願寺光佐と本願寺光壽とを離間せんとする策謀

〔四九二〕はその一例である。天正八年閏三月七日、本願寺光佐は織田信長と多年の抗争を止めて和睦し、大坂を去って、四月十日紀伊雑賀に退き恭順の態度を示していたが、その子光壽が之に叛いて、信長に反抗せんとし、時に光佐と光壽との間を離間せんとする…

本願寺門主から出した印判状

ろ式 日附が月日から成り、充所を具えたもの この部類に入る印判状は、多く管見に触れない。〔四九一〕に挙げたものは、武田氏信濃長禅寺に出した伝馬の手形であるが、充所の位置に当たるところに書いてある文言は、充所とも考えられるものである。唯形式の…

島津家久の黒印の印判状

終わりに〔四九〇〕に挙げた文書は、慶長廿(元和元)年三月二日、薩摩の島津家久が、霧島山に所領を寄進する為に出したものである。これまで挙げた印判状とは、時代も降り、又所も離れているが、日附以下に老臣四名が署名を連ね、袖に黒印が捺してあり、形…

戦国時代、封紙は本紙と同質の料紙

尚封紙は本紙と同質の料紙である。この七箇条の掟書で本紙が封紙と共に伝わるものは少ない。一般戦国時代諸家の印判状が封紙を伴ったものか否か、之が資料となるべきものは多くない。北条氏のものに多少伝わっているが、それらに依ると、本紙と封紙とは右と…

書出し定の字面に印文「福徳」の朱印

書出し定の字面に印文「福徳」の朱印が捺してある。奉者は氏仮名の下に花押を書き、或いは印を捺している。右の掟書は、渡邊光の奉じたもので印が捺してあり、紙継目表にも同じ印が捺してある。書く郷村に依って奉じた者を異にしている。とのことです。

徳川氏の民政に関する早い時期の掟書

次に〔四八九〕に挙げた印判状も、この部類に入るもので、天正十七年徳川家康が、駿河石田郷に出した掟書である。これは年貢の納め方、陣夫課役等郷村に関する規定七箇条からなり、同じ年に駿遠両国内の各郷村に向けて一様に出した徳川家七箇条の制法として…

充所に印を捺した珍しい文書

之は当時としては実に珍しい捺し方である。人名の字面を精確にした用意と思われる。従ってここには、奈良平安時代の古い印の一の働き、紙面を正確にするという働きが現れていると見るべきである。戦国時代の印の働きの内容を豊にする一資料として重んずべき…