本願寺光佐と本願寺光壽とを離間せんとする策謀

〔四九二〕はその一例である。天正八年閏三月七日、本願寺光佐織田信長と多年の抗争を止めて和睦し、大坂を去って、四月十日紀伊雑賀に退き恭順の態度を示していたが、その子光壽が之に叛いて、信長に反抗せんとし、時に光佐と光壽との間を離間せんとする策謀があったので、かかる虚説に惑わず、開山の尊體を守護している雑賀に参詣し、一紙半銭たりとも奉加に応じ、報恩の誠を致すべきことを、大和本善寺をしてその管下の衆徒に触れしむる為に出した文書である。とのことです。