2024-03-01から1ヶ月間の記事一覧

宿送りの手形

この文書は、伝馬手形、或いは伝馬ノ朱印、或いは又宿送ノ手形などとも称した。この文書によって宿継ぎに人足伝馬を仕立てて奉仕するから、宿送りの手形とも云ったのであろう。この文書の用紙は、文面が簡単であるから、細長く切った紙を用いているが、中に…

北条氏分国内の一里は六町一里と推定される

この伝馬手形は、北条氏が相模高座郡當麻宿の年寄関山氏に下したものである。この手形を持参して、小泉から當麻までの宿駅をして、伝馬一疋を仕立しめることができた。一里一銭と云うのは、一里に付一銭の割合の伝馬賃と申すことで、除くとは之を免除する意…

内容の特殊な文書である伝馬手形

尚内容の特殊な文書である伝馬の手形の中に、この例に入るべきものがある。今その一例を図版に示す。 傳馬壱疋可出之、関山▢被下、可除一里一銭者也、仍如件、 丑 奉之 三月十五日 宗悦 小泉より 當麻迄宿中

鉄砲禁止の朱印状

印は日附の上部に捺してあり、方二寸、三重郭、印文「龍」の朱印である。邦胤は尚上部に龍の形像を付けた朱印をも用いている。この形式は、後に説く安房の里見氏并に武蔵鉢形の北条氏と共通している。鉄砲の禁止は、鉄砲を放つと鳥を脅かし、或いは鷹狩の妨…

日附の年附に干支、十二支を用いた東国大名の印判状

東国地方諸大名の印判状には、日附の年附に干支、十二支を用いたものがある。〔四八一〕は乙卯、即ち天正七年五月廿六日、北条氏が相模愛甲郡煤(すす)ケ谷村の山中から材木を切り出す命令を伝える為に出した虎ノ印判状、〔四八二〕は、下総臼井の城主原邦…

上杉家独自の三人の奉者や奉行中と書いた奉書

〔四八〇〕に挙げたものは、同じく上杉家から能登国塩津の四郎右衛門に、船一艘の分校内諸役を免除する為に出したものであって、奉者は新発田尾張守長敦、竹俣三河守慶綱、齋藤下野守朝信の三人、何れも老臣である。上杉家の印判状にはかように三名の奉者の…

日附の下に直江とあるのは直江兼続

尚日附の下に、直江とあるは兼続のことで、兼続がこの印判状を奉じて出したのである。単に直江と苗字のみ書いているのは、如何にも尊大な書き方と云うべきである。唯の奉行老臣と異なる者が奉すれば、自からそこに書き現し方が相違して来るのである。尚この…

上杉家では数種の印を併用

それ以来謙信は数種の印を併用し、景勝も又その先例を踏襲した。従って謙信の如き、数種の印を使用する各の場合を指示した文書を家臣に渡していた程であった。尚謙信は花押に於いても両種を同時に併用している。勿論他家に於いても印の併用が無かったわけで…

謙信の父為景、為景の父能景は印を用いたがいずれも私印

抑々謙信は越後長尾氏から出て上杉家を嗣いだ人である。上杉家の先代に於いても、又長尾氏に於いても、謙信以前に印を文書に用いた人がある。謙信の父為景、為景の父能景いづれも印を用い、殊に為景の如きは四種の印を用いている。然しこれらの印は皆私印に…

信仰する神仏の名号を用いた上杉家の印文

日附の上部に形態の頗る異様な印が捺してある。この印は景勝が始めて用いたものではなく、その先代謙信が既に永禄年間から用いている。その印文には、勝軍地蔵、摩利支天、飯縄明神の名号が表してある。これによって謙信等が此等の神仏を信仰していたことが…

交通を阻止するためだけではない中世の関所

さて後半の文言によって、当時往還を禁止していたこと、即ち人止めとか或いは又荷留めとかが行われていたことがわかる。勿論これは軍事上の必要から行われたものであろう。警戒が解かれて平静に復すると人馬の交通が自由になり、ここに関所の作用が起こって…

「充行ふ」と区別された「預け置く」

当時大名の直轄の所領を料所、或いは蔵入と申し、これらの所領の管理者を任ずる時には、料所を預け置くと云い、家来に所領を付与する時に用うる充行ふという文言と截然と区別を付けている。この区別は戦国時代の大名の間に始めて現れたものではなく、既に室…

上杉景勝の印判状

北条武田両家の文書に対して、越後上杉氏の文書は如何であったろうか。上の図版に示すものはその一例である。 この文書は、上杉景勝が、家臣栗林肥前守就頼に、上野国の荒砥の関所を同家の料所とし、その代官として管理する為に之を預け置くという朱印状を出…

甲信地方は武田流、関東地方は北条流

次に奉者の傍に書く「奉之」の二字も、北条武田両家で相違している。北条家は始めは奉者の名を書いた左右両方の傍に書いたが、後には必ず右の傍と固定した。先に挙げた陸奥守安房守両名の場合でも、右側の人の右の傍に書いてある。之に引きかえ武田家は必ず…

日附の行に印を捺すには違いがある北条家と武田家

然るに武田家のものは、晴信の極めて早い時のものは上部であったが、後には悉く日附の終わりの日字にかかるか、若しくはそれをはづれた下に捺すきまりとなっている。同じ日附の行に印を捺しても、両家のきまりにかような相違が現れている。とのことです。

北条家の印判は、袖のものはなく日附、初期を除いて字面の上部に捺している

北条家の印判は、悉く日附に捺したものであって、袖に捺したものは一つも無い。武田家のものは、袖と日附と両様になっている。而して北条家は日附に捺すに、早い時には日附の字面の下部に捺すこともあったが、これは少しの間で、大永の末年からは、必ず字面…

武田信玄の龍の印判状

次に武田家に於いても、この類の印判状を多く出している。今その一例を〔四七九〕に挙げたが、これは元亀三年七月廿五日、信玄が、大坂石山本願寺門徒との関係を深める為に、信濃安曇郡の一向宗の正行極楽安養の三箇寺に、深志即ち松本城の普請奉行衆から課…

北条氏照、北条氏邦が奉者となった印判状

陸奥守は武蔵八王子の城主北条氏照、安房守は同国鉢形城主北条氏邦で、共に北条氏の一族中当主に次いで重き地位を占めていた人々であるが、この印判状の奉者となっている。この両人は単なる奉行人と認むべきものでは無く、北条氏一門の中にあって、諏訪氏の…

甲斐の武田家滅亡後に出された北条氏の印判状

〔四七八〕に挙げた文書も、北条氏の印判状、甲斐の武田家滅亡後、天正十年七月十三日、北条氏が武田家の旧領信濃国を治める方策として、諏訪郡高島城并にそれに伴う知行を、諏訪大祝并に千野右兵衛尉に充て行う為に出したもので、日附の字面に、虎ノ印判が…

裁判に関係した奉行が現れる印判状は今川氏と北条氏のみ

かかる裁許の印判状は天文二十四年のものが初見で、その後引継き之を出している。此等の印判状に依って、当時の訴訟制度の一端を研究することができる。かように裁判に関係した奉行とも云うべき者が奉者として印判状に現れているものは、前記今川氏と、この…

小田原北条氏も訴訟を裁決する役人を評定衆と称していた

尚北条氏の奉書式印判状にして特に注意すべきものに、〔四七七〕の如きがある。この文書は、北条氏が、その家臣尾崎常陸守と宮城四郎兵衛との尾崎大膳と云う者の討死した遺跡に関する相論を裁定して出した裁許状である。奉書式の印判状で、評定衆として裁判…

北条氏綱の相模西郡大井宮宛の印判状

第一式 日附行捺印印判状 更に之を細別して、先づ い式 日附が年月日から成り、充所を具えたもの 右に述べた大永二年の印判状は、正に之に当たっている。即ち、 (略) この文書は小田原の北条氏綱が相模(足柄上郡)大井宮神領屋敷の諸役免除等の為に、同宮…

奉書式印判状を日附の行に捺したものと、袖に捺したものとに大別

第一類 奉書式印判状 新に印判の使用が盛んになったのは、室町時代の末期からであるが、之が全国一円に始めから盛んになったのではなく、先づ東国地方から始まったのである。その東国地方の大名にして、文書に印判を捺して出した初見は、実に永享元年、駿河…

奉書式の印判状と直状式の印判状

今印を捺してある文書、即ち印判状を通覧すると、前部に於いて説いた書札様の文書と同じく、之を奉書と直状との両様に区分することができる。尤も印判状に於ける奉書は、奉者が差出所に現れ、それに花押を据えるかあるいは据えず、そこに印を捺すものは稀で…

印の意義による分類、内容に依ってわける分類の難点

印判状を部類分けするにも、種々の方法が考えられる。印そのものの意義、即ち家に具わった印である家印、之に準ずべき副印、個人に備わった印である私印、此三種の印に依って印判状を分類することも一の方法である。然し実際文書に捺した印から見ると、家印…

印のことを印判といったので、印判を捺した文書を印判状と称する

室町時代の末期から新に盛んになった印の中には、朱黒両色の印肉を用いた朱印黒印を始めとして、青印黄印等もあった。従って印の色に依って、朱印を捺した文書を朱印状と云えば、青印状黄印状の名称も用いなければならない。かくては区々の呼称となるから、…

印を捺すといっても従来の書札様の書式と異なるものではない

乍然有力な武家の間には、単に花押の如き個人的の意味を持つもの計りで無く、その家に具わり、個人を離れた公の意味を多分に発揮するものもあった。かくて専ら花押を据えた書札様の文書に対して、印を捺した印判状が盛んになったのである。 この印を捺すと云…

花押と異なることがない武家特有の印を捺す文書

然るに、将軍以外の守護大名以下武人にして、印を文書に捺して出すものが、室町時代の中期以後漸く現れ、その末期に至って極めて著しい事実となった。この印は形状と云い、印文と云い、禅僧のそれに倣ったもので、之が後まで続いたが、室町時代の末期に至っ…

足利義政の五山禅僧住持職任命の公帖

八代義政が、九代義尚の薨後之に代って幕政を執り、晩年に至って偶その病中五山の禅僧の住持職任命の公帖に、花押を署する代りに印を捺したことが、前代に絶えて無き新例で、然も後に之が続かなかった。将軍は印は備えていたのであろうが、之を通例の文書に…

室町将軍が印を文書に捺すのは当初外交上の文書に限られていた

始めこの印は、主として禅僧が用いるところで、一般の世人が文書に捺すことは無かったが、吉野時代から次第に之を文書に捺すようになって来た。武士の間にも足利尊氏直義兄弟以来歴代将軍皆印を具えていたが、将軍が印を文書に捺すものは三代義満の頃からで…