更に造立供養の願文の一例を示そう。
高野山には古く弘法大師が同山の参道に造立したと称する木札の卒塔婆があり、其れが鎌倉時代の中頃汚損したので、遍照尊院覚斅が勧進し、上は後深草上皇を始め特に関東幕府の重鎮秋田城介泰盛の奉加に依って、参道壇上より慈尊院迄の間に、胎蔵界百八十尊の種子を刻んだ石塔婆百八十基、又壇上より奥院迄の間に、金剛界三十七尊の種子を刻んだ三十七基を建立し、之が落慶供養の願文として作ったもものが、右の図版に掲げた文書である。
その料紙は鳥子金銀切箔砂子を以て下絵を画き、その上に願文を書き、実に荘厳に飾ったものである。其筆者は世尊寺行能と伝えている。造立祈願文の古い標本として挙ぐべきものである。本文は便宜〔七一二〕に収めてある。とのことです。