今川了俊の安堵書下

第七種 書下・判物

次に〔三八五〕は康暦元(天授五)年十月四日、九州探題今川了俊(貞世)が、波多大和権守の所領松浦波多村地頭職の相伝知行を確証するために出した文書、当時探題守護から出すかかる形式の文書を書下と云う。この了俊のものは、安堵書下と称すれば最も適当している。とのことです。