古い形式の文書の復活を試みた大内氏

以上は足利将軍家に関することであるが、将軍家に倣ったものであろう、管領守護人の中にも、この式の下文を出す者があった。まず〔一三六〕に示したのは、貞和三年(正平二年)十月十九日、高師直が、山中辨房に武蔵国男衾郡内形田郷四分一を与えるために出した下文で、師直の下文としては珍しいものである。なお三河国の守護吉良氏もこの式の下文を出していた。有力な守護人は将軍家に倣って各出していたのであろう。而して将軍家に於いては、前記の如く吉書以外義満の時を以って終わっているのにも拘わらず、守護人の間には、この後に至ってもこの下文を出しているものがある。

すなわち周防長門の守護大内氏がそれである。同氏に於いては政弘が寛正の頃からこの下文を出している。〔一三七〕はその一例で、文明二年六月十七日、政弘が家臣乃美家平に、周防国熊毛郡立野保内の知行を与えるために下したものである。政弘の後、その子義興から義隆、義長皆代々この式の下文を出し、大内氏に次いで毛利氏に於いても、元就の子隆元がこの式の下文を出している。すなわち〔一三八〕は、永禄二年九月廿日、榎本賢忠に周防宮野庄内の知行を充行うために出した一例である。隆元は大内氏と関係の深い人であったから、恐らく同氏の影響を受けたに依るのであろう。これが管見に於けるこの式の下文の最後のものである。大内氏は前述の如く、大宰府宣の如き、平安時代の古い形式の文書を用いていたが、ここに説く下文も、すでに将軍家始め其他の者が最早用いなくなっていたにも拘わらず、これを相変わらず用いていた事実は、大いに注意を惹く。同氏は謂わば古い形式の文書の復活を試みていたと見るべきであって、この文書の形式から大内氏の文化の性質を推測することができるであろう。とのことです。