実朝の菩提を弔う坊城女房

扨て鎌倉時代にはかような守護職補任の下文があったか、今その例が伝わっていないから明かでない。然し袖署判の下文と形式を異にし、ここに挙げたものと同じ形式の文書はある。即ち〔一六二〕に挙げたのはその一例である。坊城女房と申す者が、源実朝の菩提を弔う為めに、有須河堂を立て、この堂領として伊勢原御厨、越前山本庄の預所地頭両職と河内大窪庄の地頭職を寄進したが、之が認可を得んことを将軍家に請うたので、寛喜元年十一月廿六日、将軍頼経がこの文書を出して、その申請を許容したのである。一般の地頭御家人に対しては、かかる時には袖署判の下文が出たのである。坊城女房はその身分が明かでないが、実朝の菩提を弔うところから見ると、実朝と関係の深い地位高い婦人であったと推想せられる。かかる人に対して、一般の地頭御家人に出す下文と異った書式を具えたこの文書を出した点から考えると、この書式の文書は、袖署判の下文よりも鄭重な書礼を表していると見るべきである。かように考察してみると、尊氏の守護職補任の文書と同じ意味の文書が、鎌倉時代から既に存したことが知られるのである。とのことです。