裁許の「御下知」にあわせて下知状と呼ぶこととする

右に挙げた二様の文書の出ている場合を通観すると、将軍家から将軍の袖署判の下文、もしくは政所下文を出すものに代えて出している。従ってこの点においても、この種文書は下文と密接な関係がある。かように下文と関係があったうえに、第一種のものは既説の如く、旨を奉る意味を表した以外においては、下文と書式を同じくしていたためであろう、之をも等しく下文と称している。しかしこの下文は、大体〔一四〇〕に挙げた文書の時代安貞二年頃を以てその終を告げているが、第二種のものは、寧ろ承久以後北条義時の執権時代から盛んに出るようになった。

 〔一四三〕は、承久二年十一月十七日に、幕府が美濃国源光行を、山賊捕縛の恩賞として同国方縣郡内貞清郷并に重次郷の地頭職に補任したもので、従来かような場合には下文を以てしていたのであるが、それがこの下知状第二種の式をとっている。また〔一四四〕は貞応三年正月廿九日、伊予河野通久の同国中散在の下人に関する訴訟を裁許するために出した文書であるが、相論の裁許の為に盛んにこの下知状を出すようになった。例えば〔一四五〕は、弘安十年十一月廿七日、石清水八幡宮領淡路鳥飼庄別宮の雑掌と地頭佐野富綱との相論を裁許した時のもので、また〔一四六〕は、嘉暦三年七月廿三日、熊谷直経と継母尼真継の代官了心との直経の兄直継の遺領に関する相論を裁許する為に出したものであるが、何れも第二種の書式をとっている。

 之と同じ書式でも、所職の補任、所領の充行のものは、多く元来の下文と同様下文の名を以て呼んでいるが、訴訟を裁許するために出したものは、御下知、下知状と称しているのが普通である。依ってこの書式の文書を元来の下文と識別するために、下知状と称することとする。とのことです。

 

・〔一四四〕新補地頭が下人が河野道久のところに訪ねていくのを制止したが、下人の自由に任せるように命じた。鎌倉武士のゆかしい恩情が溢れている。

・新補はシンフとよむシンポにあらず

・資料を多く集めて帰納的に研究する必要がある