下文が変形して下知状となる

右の諸例を見るに、位署の位置こそ武家の下知状と相違しているが、天喜四年、治暦二年、平治元年の下文は、武家下知状の第一種即ち書出しに「下云々」と無い形式のものに相応しているものと考えられる。かように考えると、武家の下知状の根基となるものは、既に平安時代の末期の古文書に現れていると見るべきである。鎌倉時代武家の下知状に於て、位署が上部から下部に下っているのは、後に説く奉書の形式の影響を受けたものと考えられるが、下文の形式そのものが、儀礼上の高下を考慮して下部に下ったものと考えられる。公式令に書式の挙げてある公文書類に於ける上位のものは上部に、下位の者は下部に位署を加えるこの原則に従ったものとも考えられる。要するに下知状が、下文が基になって変形したものであることは、前記平安時代に於ける寺院の下文の本文書止めの例文に「下知如件」とあるに依って動かすべからざる事実と云うべきである。とのことです。