干支のみの文書は東国地方の大名の地方的特色

更に之が干支のみとなって現れてきた。かように干支のみを日附に用いた文書を発することは、全国一般の傾向では無く、大体東国地方の大名の文書に限られていた。就中相模の北条氏、甲斐の武田氏のものに多い。之も当時に於ける文書の地方的特色と認め得る。

然らば、何時頃から之が現れているかと云うに、北条氏のものは癸卯即ち天文十二年、武田氏は甲寅即ち天文二十三年を初見とする。大体天文の中頃から現れている。即ち右の事実に依って、之が戦国時代に於ける一の地方的特色と云うことができる。とのことです。