上杉景勝が豊臣秀吉の命を受け分国中の升を京升に統一

〔四八五〕に挙げたものは、天正十九年八月、景勝が豊臣秀吉の命を受け、分国中の升を京升に一定する掟を示す為に出した印判状である。秀吉の命令に依って、従来区々であった度量衡関係の事柄が、全国的に統一された事実をしることができる。とのことです。

北条家の虎ノ印判に対抗したと思われる上杉家の獅子の印判

印は日附の上部に捺してある。この印は朱印、上部は獅子の画で、印文は地帝妙の三字から成っている。地蔵菩薩帝釈天妙見菩薩の各名号の頭字をとったのである。先に記した如く、景虎が永禄三年上杉家の勢力回復の為、始めて関東に出陣した時、武蔵相模両国の社寺に出した軍勢乱妨停止の禁制に捺したものが、矢張りこの印であった。この印は景虎の印の始めてのもので、而もそれが関東に転戦して出した文書に始めて現れているのは、何か偶然で無いように思われる。敵勢たる北条軍の虎ノ印判に、獅子の印判で対抗したのではなかろうか。とのことです。

特色が現れている上杉家の奉書式印判状の奉者の表し方

印判状を奉じている直江実綱、河田長親の両人は名判を加えている。この点前項の上杉家の奉書式印判状と同様である。大体、上杉家の奉書式印判状に於ける奉者の表し方は、直江兼続の奉じたものの外は、奉行中と記すか、若しくは右の如き表し方となっている。ここに又特色が現れている。とのことです。

地方の大名領内の徳政史料

は式 日附が年月日から成り、充所を具えないもの

左に挙ぐる図版は、この部類に入る印判状である。

この文書は、長尾景虎(謙信)が、越後上田庄妻有庄藪神が水損に依り、地下人が困窮するので、徳政即ち貸借の契約を無効にする掟を敷いて、之を救済する為に出したものである。徳政に関する古文書としては、既に室町幕府から出したものに重要な史料となるものがあるが、之は地方の大名領内の徳政史料として注目するに値する。売買の代金の未払も棒引きとなったことが、右の第五条に依ってわかる。とのことです。

 

酷似している今川義元と大道寺政繁の印判

年附は無いが、恐らく天正十年前後のものであろう。当時の訴訟の制規が窺われる。日下に朱印が捺してある。ところがこの印が、駿河今川義元の「義元」の二字を印文にしたものと酷似していて、従来之を義元のものと見做していたが、仔細に観ると明らかに相違があり、他の史料に依って研究してみると、之が政繁の印判であることが判明した。花押が頗る類似していることは往々にしてあるが、印判が見誤る程類似しているのは極めて稀である。所が変わり、又時を隔てていると、自から暗合するように類似の印が出現することもあった事実を、右の文書に依って知ることができる。印の鑑識上心得ておくべきことであろう。とのことです。

日附が月日から成り、充所を具えた印判状

ろ式 日附が月日から成り、充所を具えたもの

之に属する例は余り多くない。〔四八四〕に挙げたものはあその一例である。鎌倉の代官で北条氏の老臣である大道寺政繁が、鎌倉郡山ノ内の町人百姓が出した小泉藤右衛門の屋敷の棟別銭に関する訴状を受理し、之を相手方なる藤右衛門に遣わし、之に対する陳情を差し出すように命ずる為に出したのがこの印判状である。とのことです。

慶長五年頃、奉書式の印判状の終焉

本文書止めに「何々也」とあるは、家康の地位の高いことを示している。大久保長安が奉じ、日下に「忠恕」の朱印が捺してある。家康も武田北条家の如く、かかる奉書式の印判状を天正年代殊に十年以後多く出しているが、今ここに挙げた慶長五年頃のものが、大体その終末である。家康の印判状に限らず広く見て、この頃に至って、かかる形式の印判状は終わりを告げている。とのことです。