下すの下に充所が書いてない形式

なお他の諸家の政所下文の例を示すと、〔一〇三〕は、文治三年十月五日、右大臣家藤原實定の政所から賀茂社の祠官賀茂能久をして、丹波私市(きさいち)庄、美作河内庄を父資保の譲与に任せて領知せしむるために下した下文である。下すの下に充所が書いてない。かかる形式のものが院庁下文等にもある。これが下文における一つの形式であった。

次に〔一〇四〕は、建保四年九月、正三位右衛門督藤原範朝の政所から後鳥羽院御領丹波吉富庄官に出した下文、隣庄宣陽門院御領野口庄と堺相論のことあり、これがため同庄から無法に吉富庄に検田使が乱入したので、これが非理を訴えて奏聞を経るまで、検田使の処分に随うべからざることを命ずるために出したものである。範朝は院をこの庄の本所と仰ぎ領家職を持っていたものと思われる。かような諸卿の家の政所の下文も、摂関家の政所の下文も、共に形式は同一である。とのことです。