現存最古の源頼朝袖判下文

この書式の下文は、頼朝が未だ公卿に任ぜられなかった間に出したもので、公卿となってからは、政所下文を以ってこれに代えたことは、すでに述べた通りである。而して次の頼家・実朝と源家三代から、頼経・頼嗣藤氏二代の将軍、みな公卿に列せられない間は、その下文は右と同じ書式のものであった。〔一二九〕に挙げた下文は、元暦元年六月、頼朝が、丹生屋光治と申す者が、紀伊神野真国庄を押妨するを止め、領家藤原定能をして、これが領知を全くせしめるために出した下文である。頼朝のこの種形式の下文の今に伝わる最古のものである。これより古い日附のものもあるが、それらは皆疑わしい点があるものである。なおこの下文が神護寺に伝わっているのは、藤原定能からこの庄園を神護寺に寄進し、同寺がこの庄園の本所となり、藤原定能が、領家となっていたからと思われる。とのことです。