将軍家は地頭職、北条氏は地頭代職を補任

次に〔一三〇〕は、寛喜元年七月十九日、将軍藤原頼経が、常陸国御家人真壁時幹をして、その父友幹の譲状に任せ、その遺領を襲領せしめるために出した文書である。当時かかる所領を襲領すべきことを許す文書を安堵の下文と称した。頼家以後に於いては、この式の下文は、地頭御家人に対して地頭職以下の補任、若しくは所領安堵のために出す文書であって、将軍家から出る文書の中、儀礼上最も重ずべきものとして取扱われていた。

 この頼朝以下の下文に倣ったものであろう、北条時政以来、義時・泰時等いずれも同じ書式の下文を用い、地頭代職補任等の場合に出している。すなわち〔一三一〕〔一三二〕はその実例で、建久八年六月日、時政が源清成という者を遠江国蒲御厨の地頭代職に、建保七年四月廿七日、義時が平広忠を陸奥国平賀郡内岩楯村地頭代職に、各補任した時の下文である。時政、義時が各その地頭であったので代官を任命したのである。将軍家のものは地頭職、北条氏のは地頭代職で、資格に大きい相違があるが、下文の形式が全く一致しているので、これらの下文が一度写されすなわち案文として伝わると、将軍家の下文と往々取り違えることがあるから注意して置かなければならぬ。とのことです。

書き写しの際花押が略されると同じ形式なので将軍家か北条氏かどちらが発給した文書か取り違えることがある、と注意されています。