宮将軍の下文と間違えられる北条・足利氏の下文

更に下って足利氏の如き、鎌倉時代に於ける守護人として有力であった者も、将軍并に北条氏と同じ形式の下文を出している。〔一三三〕はその一例で、嘉元三年八月十四日、尊氏の父貞氏が粟生四郎入道等に、三河国額田郡内秦梨子郷司職を従前の如く領知せしめる即ち安堵するために出した下文である。鎌倉時代中期以後即ち宮将軍時代に於いて、右に記した北条・足利両氏の下文は、大抵時の宮将軍の下文と間違えられている。当時に於いては将軍家からこの式の下文は出していなかったことは、既に政所下文の条で述べた通りであるから、今後は従来の誤りを正して取扱わねばならぬ。とのことです。