北畠顕家、庁宣でなく袖判の下文を出す

なお建武中興以後、陸奥の国守に任ぜられた北畠氏の下文は、右の書式をとっている。すなわち同氏は庁宣を出さず、専ら袖判を加えた下文を出している。これは後項に説く武家の袖判の下文とも同じ書式を具えている。〔一二五〕に挙げたのはその一例で、建武元年九月十日、北畠顕家が、伊達政長に陸奥伊達郡内長江彦五郎の遺領を与えるために出したものである。

第三種 庄園領家下文

国司と相並んで庄園の領家からも袖署判の下文を出している。〔一二六〕に挙げた文書は、建久九年七月廿九日、肥後阿蘇社の領家から同三社の神官に対して、大宮司惟次をして、一社の造営を沙汰せしめんがために下したものである。袖判を加えた者は領家であるが、未だその人を詳にしない。また〔一二七〕に挙げた下文は、寛元二年五月、山城富家殿に対して出したもので、これが領家の下文で、袖判の主は、一条實経とも考えられる。しかし實経は袖判まで加えてかかる下文を出すべき地位の者で無かったと思われるから、しかく判断することを差控えておくべきであろう。とのことです。