事書の有無は文書の内容に依る

右両様の文書は、細かい書式に於て相違があるが、大体に於ては下云々のなき袖署判の下文であって、即ち共に下云々の袖署判の下文の変形と認むべきである。この両様の書式の中に於て足利氏の幕府になると、袖判を加えて、事書が無くして直に本文を書き始めるものが多くなった。これはこの式の文書が所領所職の充行安堵計りで無く、他の種々の事柄に就いて出す文書にも用いるようになって来たからである。

例えば〔一六六〕に示した文書は、建武三(延元元)年六月廿五日、足利尊氏が平賀兼宗の京都合戦に於ける軍忠を褒める為めに出したもので、之は内容から云えば感状である。尤もこれから後には、事書が全く無くなったわけではなく、〔一六七〕に挙げた文和元(正平七)年十一月十五日足利義詮が、大山崎神人に、その運送する内殿御燈油の荏胡麻に対する諸関の津料を免除する為めに出したものの如く、事書が加えてあるものも間々伝わっている。又〔一六八〕に挙げたものは、関東公方足利義氏が、天文廿四(弘治元)年十一月廿二日、家督相続御判始めの吉書として出した文書であるが、かような形式のものもあった。要するに文書の取扱う内容に依って事書を加えると加えざるものとの区別を生じたと見るべきであろう。とのことです。