日下署判の安堵状・裁許状

第四式 日下署判下文変形文書

 第一種 安堵状・裁許状・御教書

この書式の文書も鎌倉時代から現れている。即ち〔一九六〕に示した如く、既に建仁三年九月四日、北条時政が、信濃国の住人中野五郎と云う者をして、本所領に安堵せしむる為めに出した文書が同様の書式をとっている。又〔一九七〕に挙げた如く鎌倉時代僧侶と平人との所領の相論を成敗する、即ち裁許する為めに出した宝治二年九月廿二日附文書に此書式をとったものがある。之を当時成敗状と呼んだことが、文書の本文とは別筆を以て記録した文書の名称に依って判る。又〔一九八〕は、貞治二(正平十八)年三月十六日、佐々木道誉(高氏)が摂津国清澄寺中山寺との堺相論を裁許する為めに出した文書であるが、この書式を取っている。この文書に依って、道誉が当時摂津の守護人であったことが知られる。又〔一九九〕に見る如く、建武三(延元元)年六月十七日足利直義が、東福寺に祈祷を依頼する為めに、この書式の文書を用いている。とのことです。