弘安の高麗討伐の風聞

次に〔四五一〕は、東大寺勧進聖聖守が、弘安四年八月、京都に寺領の訴訟の為滞留し、その訴訟の模様を本寺に知らせたものである。その右端に二字下げて書いてあるのが、即ちこの文書の追而書である。その中に当時幕府に依って企てられた高麗征伐即ち弘安再度襲来した蒙古人を覆滅した後、我が国から進んで異国を討たんと計画した、その内容の一端が記してある。之は聖守が滞洛中耳にした風聞であるが、事実であったことと思われる。