後醍醐天皇の御遺勅の綸旨

(略)

この文書は後醍醐天皇崩御の前日、征西大将軍懐良親王に奉仕していた五条頼元に、御不予に依り後村上天皇に御位を譲らせられし由を告げ、若し不慮の御事があっても、従前に変わることなく朝敵追討に尽瘁するようにと御憑あらせられた、所謂御遺勅の綸旨と申し、世に著聞しているものである。とのことです。

差出者受取者何れかが女子であると仮名交じり

それが奉書御教書になると、奉ずる者が女子であると仮名交じりであり、充所が右の綸旨の如く女子であると仮名交じりのこともあったのである。要するに差出者受取者何れかが女子であると、そこに仮名交じりの文章が用いられたのであって、之は消息書状、奉書御教書に限らず、平安時代末期以後の文書の全体に亙る慣習となっている。とのことです。

充所が女子ならば仮名交じり

尚お右の綸旨は、文章が仮名交じりとなっている。之は充所が婦人であるから、かような文体をとったのである。消息書状は差出者が女子なれば、必ず仮名交じりであり、又男子が差し出したものでも、充所が女子であれば又仮名交じりであった。とのことです。

宿紙は綸旨ばかりでなく、院宣・御教書にも用いられる

然し必ずしも綸旨に宿紙を用いるとは限らず、鎌倉時代の綸旨で、白紙即ち普通の紙を用いているものがある。又宿紙は綸旨のみに用いたのでは無く、既に述べた如く蔵人の奉って出す口宣案或いは蔵人所の下文にも用いており、蔵人若しくは蔵人所から出す文書には、大抵この紙を用いたのである。又宿紙は綸旨計りで無く、後項に説く上皇法皇の御意を伝える院宣、或いは又摂政関白の仰せを伝える御教書にも用いている。とのことです。

薄墨の綸旨

この綸旨の料紙は、宿紙を用いている。綸旨は多く宿紙即ち漉返紙を用い、この紙の漉返したために、その色彩が薄墨色を呈しているところから、この紙を薄墨紙と申し、これから更に薄墨の綸旨と云う言葉も起こっている。とのことです。

北畠具行の母民部卿局宛、千種忠顕が奉じた綸旨

この文書は元弘三年八月六日、蔵人頭千種(六条)忠顕の奉じた後醍醐天皇の綸旨である。充所に民部卿とあるは、北畠具行の母民部卿局であって、具行は元弘元年八月、笠置山臨幸に供奉し、後捕らえられ幕府のために斬られた。民部卿がその菩提を弔うために、大徳寺に下総遠山方御厨の領家并に地頭職を寄進した。その寄進を許さるるためにこの綸旨を出されたのである。とのことです。