鎌倉時代以後になると綸旨の伝わるものが多くなり、殊に後醍醐天皇の御代元弘建武年間、次いで吉野時代に於いては、天皇の御親政であらせられた為、盛んに綸旨を下された。〔二六九〕に挙げたものは、後醍醐天皇が天皇一統政治の御再興を御発念あらせられ、元弘三年隠岐島の行在所を出でさせられ、伯耆国船上山に據り給い、三月十四日、出雲国の杵築社神主出雲国造孝時をして、王道御再興成就を祈念せしめる為に下された綸旨である。とのことです。
白紙切紙の綸旨は略式
綸旨令旨にして切紙を用いられたものは、前記の如く延元元年後醍醐天皇の綸旨に始まり、吉野時代を通じて行われている。而して綸旨が切紙である場合には、必ず白紙であって、宿紙を用いられたものは一通も伝わっていない。要するに綸旨には宿紙を用いるのが正式であり、白紙切紙を用いるのは略式であったと見るべきである。とのことです。
髻の綸旨縒り込んだ事実はなし
髻の綸旨と云う言葉も髻に縒り込んだ事実も太平記等には見えていない。切紙を用いたのは、文書の携帯に便利にする為ではあるが、切紙を用いた古文書が皆髻に縒り込んで、携帯の便利を図ったものとは考え得ないのである。とのことです。
髻の中に縒り込むということは無かった
ほかの文書にはかかるものもあったが、綸旨或いは親王の御意を伝える文書令旨に限っては、よし切紙をその材料に用いても、之を正々堂々と送り奉ったものであって、髻の中に縒り込むと云うが如きことは無かったのである。とのことです。