盛んに下された後醍醐天皇の綸旨

鎌倉時代以後になると綸旨の伝わるものが多くなり、殊に後醍醐天皇の御代元弘建武年間、次いで吉野時代に於いては、天皇の御親政であらせられた為、盛んに綸旨を下された。〔二六九〕に挙げたものは、後醍醐天皇天皇一統政治の御再興を御発念あらせられ、元弘三年隠岐島の行在所を出でさせられ、伯耆国船上山に據り給い、三月十四日、出雲国の杵築社神主出雲国造孝時をして、王道御再興成就を祈念せしめる為に下された綸旨である。とのことです。

原本最古、後冷泉天皇の綸旨

原本として伝わる綸旨は、前掲図版醍醐寺所蔵天喜二年の後冷泉天皇の綸旨であり、又宿紙に書いた綸旨の初見としては、同じく醍醐寺所蔵〔二六七〕崇徳天皇の〔天承元年〕二月二日夜居護持僧の綸旨である。之に次ぐものとして東大寺東南院に伝わった〔二六八〕近衛天皇の〔康治元年〕十二月十五日附の綸旨があるが、同じく料紙に宿紙を用いている。これらの綸旨の書止めは、之を悉せ謹みて言す、或いは状すと読むのである。之を悉せとは、前出後一条天皇の綸旨の書止めにある、一を以て萬を察せよと同じ意味と思われる。とのことです。

醍醐寺に伝わる祈雨日記

綸旨の最も古いものは、〔二六六〕に挙げた後一条天皇の(万寿五年)四月十二日附の綸旨である。之は醍醐寺に伝わった祈雨日記と申す雨乞の御祈祷に関する記録の中に写し留めた文書であり、此記録は鎌倉時代の初期に書写した奥書を持っている。小野の仁海をして、弘法大師の先例に任せ京都の神泉苑に於いて祈雨の御祈祷を修するように命じた綸旨である。日附に万寿五年とあるのは、原本にあったのでは無く、文書の授受が済んだ後に追記したと見るべきである。差出所に重尹歟とあるは、転写の際記入したものであろう。尚祈雨日記には之に続く古い時の綸旨が多数収めてある。とのことです。

白紙切紙の綸旨は略式

綸旨令旨にして切紙を用いられたものは、前記の如く延元元年後醍醐天皇の綸旨に始まり、吉野時代を通じて行われている。而して綸旨が切紙である場合には、必ず白紙であって、宿紙を用いられたものは一通も伝わっていない。要するに綸旨には宿紙を用いるのが正式であり、白紙切紙を用いるのは略式であったと見るべきである。とのことです。

髻の綸旨縒り込んだ事実はなし

髻の綸旨と云う言葉も髻に縒り込んだ事実も太平記等には見えていない。切紙を用いたのは、文書の携帯に便利にする為ではあるが、切紙を用いた古文書が皆髻に縒り込んで、携帯の便利を図ったものとは考え得ないのである。とのことです。

髻の中に縒り込むということは無かった

ほかの文書にはかかるものもあったが、綸旨或いは親王の御意を伝える文書令旨に限っては、よし切紙をその材料に用いても、之を正々堂々と送り奉ったものであって、髻の中に縒り込むと云うが如きことは無かったのである。とのことです。

髻の綸旨の由来は?

かかる切紙を綸旨の料紙に用いられた初見は、延元元年六月二十六日、鞍馬寺衆徒に向かい、義兵に参加するように促された時のものである。綸旨に切紙を用いられたのは、使者が之を奉じて送附するに当たり、髻の中に縒り込んだものであって、そこから之を髻の綸旨と称したと云われているが、之は恐らく誤りであろう。とのことです。