折紙は近世に及び用いられる場合が多くなった

本文の書止めは、「如件」に限らず、〔四〇二〕に挙げたものの如く「恐々謹言」で結んでいるものも、その料紙が折紙であると、折紙と称するのである。

 この折紙は、次第にその用いられる場合が多くなった。戦国時代の末期から、近世江戸時代に及び、大名殊にそれに仕えた年寄、奉行等から折紙と名付くべき文書を多くだしている。〔四〇三〕は、天正十六年九月九日、豊臣氏の奉行前田玄以の出した折紙、〔四〇四〕は、慶長十八年八月廿二日、京都所司代板倉勝重が出した折紙である。とのことです。

料紙の形状から名称が生じた折紙

第八種 折紙

更に〔四〇一〕は、弘治二年十二月廿七日、三好長慶が東寺雑掌に充てた文書である。その料紙は折紙を用いている。この文書は、東寺公文所の公文たる浄忠と申す者父子が、年貢収納の算用即ち計算に就いて不正を行い、ために斗升を私して逐電したので、之を補うべきことを命じ、又新に斗升を造ることを許すためにだしたものである。かように当時命令を伝える文書に、既に説いた幕府奉行の奉書に見る如く、その料紙に折紙を用いる慣例が生じていた。そこでかかる文書を折紙と称するに至った。即ち料紙の形状から文書の名称が生じたのである。とのことです。

加藤清正の掟書

〔三九九〕に挙げた文書は、天正七年八月十二日、北条氏照が相模江島の上宮岩本坊に充て、同島に関する諸事取締に関して出した文書であるが、書札の形式を具えている。文書の名称としては掟書と呼ぶべきであろう。次に〔四〇〇〕は、天正一六年閏五月六日、肥後の加藤清正が、老臣北里三河入道等に出した、領内治政に関して与えた掟書である。書止めに下知如件とあるが、書札の式を具えている。とのことです。

この文書について網野善彦さんが言及しています。

 

 江嶋の人々は、主をもつことを許されなかった。つまり、逆にいえば、江嶋中の者  

 は、主従の縁の切れた人々だったのである。それ故、外部の争い、戦闘と関わりな 

 く、平和を維持することができたのであった。まさしく、江嶋は「無縁」の場だった

 のであり、「公界所」という言葉は、この場合も「無縁所」と同じ意味、同じ原理を

 表現している。

                     網野善彦『増補 無縁・公界・楽』p.68

加藤清正の掟書

〔三九九〕に挙げた文書は、天正七年八月十二日、北条氏照が相模江島の上宮岩本坊に充て、同島に関する諸事取締に関して出した文書であるが、書札の形式を具えている。文書の名称としては掟書と呼ぶべきであろう。次に〔四〇〇〕は、天正一六年閏五月六日、肥後の加藤清正が、老臣北里三河入道等に出した、領内治政に関して与えた掟書である。書止めに下知如件とあるが、書札の式を具えている。とのことです。

朱印状判物と形様に変わらず堂々たる文書

爾後この次第を守って社務職に就き室町時代以来の紛議の解決を見るに至ったのである。料紙は大高壇紙を用い、当時の社寺領寄附若しくは安堵の朱印状判物と形様には変わりない堂々たるものである。とのことです。

徳川家康の裁許状

次に裁許状の一例を図版に収めて示そう。

(略)

石清水八幡宮の社務は、室町時代以来田中以下の諸祠官家が交替にてその職に就いていたが、その諸家の間にその次第に関して紛議を重ねることがあった。徳川家康の代に至って、之が順序に関する訴訟を裁決し、慶長五年五月当社務に就いていた田中家から次が新善法寺、善法寺、壇と次第を追って、社務職に補すべきことを定め、之を祠官の一たる壇家に伝えた時の判物である。とのことです。

今川氏真の裁許状

更に訴訟の裁許に関して出した判物もある。〔三九八〕は、永禄三年九月十五日に、今川氏真駿河清水湊の船役の訴訟に対して出した裁許状である。又証状若しくは証文とも云っている。当時の民政資料として興味ある文書である。とのことです。