一行に書く書式から併記へ

かような事実から見ても、この両人に充てて書く書式が充分熟していなかったと考うべきであろう。両名を縦に一行に書く書式で最も不自然に思われる点は、殿の字を重ねているころであろう。最初の間はかように表していたが、やがてその不自然を悟って、併記と云うことになったものと思われる。併記の場合には、最初の者が地位の高いことになっている。とのことです。

六波羅南北両方を縦に一行に書く

尚この文書の充所が両人になっていることも注意しなければならぬ。充所が両名になっている文書は、関東の幕府から京都の六波羅南北両方に送った文書が、管見に入った最初のものである。両人の場合、右の文書の如く縦に一行に書いている。之も一つの特徴であって、大体この頃のもののみに見える書方であって、次の時代時頼頃からは両人を横に二行に併記している。とのことです。

泰時と時房、日下に泰時

泰時は時房よりも地位が高いように思われるにも拘わらず、泰時が日下に位署を加えている。これは後世の書札礼から申すと、異例であるが、実は然らずして矢張書礼に叶っている。当時泰時は正五位下であったが、時房は従四位下であった。この位階の上下に依って、下の者が日下に位署を加えたのである。右の文書に依って、既に連署状の早い例に於いて連署の順序は正しく位階の上下に依って次第していたことが判る。即ちかかるところから、後の書札礼に日下に位署を加える者が地位が低いということが起こって来たと見るべきであろう。とのことです。

執権北条泰時、連署同時房の連署奉書

次に承久合戦を経て義時の時代を過ぎると、大抵執権一人若しくは執権連署の両人が奉じて出している。〔三一九〕は、執権北条泰時連署同時房が奉じて、六波羅探題北方北条重時、南方同時盛に充てて出したものである。当時執権は泰時で、時房が連署、この頃から執権連署連署奉書で出す形式が定まってくる。とのことです。

武家の下知状の始まり

武家の下知状の始まりが、実にこの一例であることは既にその項で述べた通りである。例式に違う文書に就いては、その時の制度の変化によくよく注意して、その性質を極めるように努めなければならない。かくして更にその制度の変化、若しくはその文書を出した当事者の政治的社会的の地位を的確に識ることができるのである。とのことです。

義時専権時代の特異な奉書

之が義時の時代を過ぎて執権北条泰時連署同時房の時代に至ると、何れに対しても一様に執権連署連署奉書で出すこととなって来たのである。要するに、この特殊の奉書は、義時専権時代の特異の事情に依って起こったものである。かように三代将軍の時代から執権連署の時代に移る過渡期、若しくは制度が中間途絶えた時には、往々先例常例と趣を異にした文書が出現している。とのことです。

義時が直接と、奉行に作らしめたのと両様の区別がある

然しこの形式の文書は、充所にも依るもののようである。即ち此の形式の奉書の充名は、地頭御家人の如き地位の低い者計りである。地位の高い者には、義時が直接仰せを奉って出した通例の奉書もある。之に依って見ると、当時義時の威権が強大であった為、義時が直接奉じて出すものと、奉行に更に奉書を作らしめて出す両様の区別を付けたものであろう。とのことです。