管領細川頼之が将軍義満の命を奉じて出した御教書

尚〔三二五〕は、管領細川頼之が(応安三(建徳元)年)十一月廿二日、京都神泉苑築垣修理に関して、将軍足利義満の命を奉じて、東寺長者三宝院光済に出した御教書である。充所に依って、かくの如く書状の式にしても、敬意を表した書き方をしている。とのことです。

足利幕府執事・管領奉書

足利幕府執事・管領奉書

扨て足利氏の幕府になると、執事管領が将軍の仰せを奉じて文書を出した。之を当時御教書と称していた。〔三二四〕に挙げたのは、暦応四(興国二)年十一月十三日、執事高師直足利尊氏の命を奉って、薩摩国一宮新田八幡宮社殿の触穢に依り、その清祓に関して、同国守護島津貞久に伝えたものである。とのことです。

北条氏の一門は三位に叙せらるることは無かった

北条氏の一門は、執権と雖も三位に叙せらるることは無かった。従って、家の政所を開く資格は無かった。そこで公文所を設けて事務を執らしめていた。既に下文の項に於いても注意した如く、又ここに述べる奉書に就いても、幕府の執権連署として公に出す幕府の御教書と、北条氏一家の公文所からその執事をして出さしむる奉書との間に、公私両様の区別の存していたことを銘記しておかなければならぬ。とのことです。

北条貞時の公文所から出した奉書

当時貞時は執権ではあったが、この文書は執権としてでは無く、若狭国の守護として、その被管をして出さしめた奉書である。更にこの奉書を承けて、下に伝えた即ち守護代が施行した施行状に、この奉書を指して公文所の御施行と云っている。即ち貞時の公文所から出した奉書と云うことである。とのことです。

貞時の仰せに依って下に伝える形式

即ち〔三二三〕は、執権北条貞時に属していた者が、正応五年十月十三日附で出した連署の奉書であるが、之は幕命を伝えているのでは無い。この日附より八日前に、連署北条宣時が奉って出した貞時充の幕府の御教書に依って、貞時が受けた幕命を、更に貞時に属していた者が、貞時の仰せに依って下に伝える形式を取ったものである。とのことです。

奉行・公文所の奉書

奉行・公文所奉書

右の如く執権連署と云う大いに著れた人の奉書であると、その文書の性質が判然とするが、かくまでに至らぬ者の奉書であると、何処から出た文書か明らかに致し難いものもある。〔三二二〕に挙げたのは、鎌倉幕府関係の人の奉書で、執権北条時頼の仰せを奉じているものであることは判るが、かような類の奉書で何処から出たか判然としないものが往々ある。前記時頼の仰せを奉じた實綱外二名連署の奉書は、幕府に直接関係した文書であるが、執権に属している者が奉じた奉書でも直接幕府の命令を伝える為のものでない文書がある。とのことです。

蒙古襲来警備のため、北条兼時、時家を鎮西に下す

尚関東御教書の例を示すと、〔三二〇〕は文永六年二月十六日、幕府から鶴岡八幡宮別当に充てて、僧坊以外に在家人の入り込むことを禁ずる旨を伝えたもの、〔三二一〕は、正応六年三月廿一日、幕府が蒙古人の襲来警備の為に、北条氏一門の中から兼時、時家の両人を鎮西に下し、薩摩国の守護島津忠宗をして、之と一味同心し、合戦の方策を練り、兼時の指揮に従い、且つ又地頭御家人并に寺社領本所にて専ら管領し武士の入らざる土地の者に、守護人の催促に応ぜないもののあるときに特別の処置を加えることを、薩摩国中に触れしむる為に出したものである。充所に依って、その書式に多少相違の現れていることに注意すべきである。とのことです。