官牒は、官符とも呼ばれた

牒においては、日附の下と日附の次の行に位署がある。符は日附の前である。ここが相違している。牒のなかに、誤って符の書式をとったものがあることは前に述べた。

太政官から出る牒を符と呼んだことが平安時代の文書記録に散見している。符も牒も太政官からでるので、一様に官符と呼んだのだろう。公式令の文書の区別があいまいになってきたことを示すものだろう。

官牒には、外印が捺してある。しかし円珍に関する貞観八年五月廿九日附のものには、内印が捺してある。平安遺文フルテキストデータベースでも「故牒」と見えています。

奈良時代の官牒の実物は現存せず、第八図の延暦十二年のものが初見である。太政官から寺院に対しては悉く官牒を出したので、平安時代以降のもので、東大寺、東寺など大きな寺院の文書の中に多く伝わっている。たいてい三綱以下寺官の補任に関するものである。

これらと内容を異にしたのが、先の延久の荘園整理の官牒や、〔三一〕の金剛峯寺に対して異国降伏の祈祷に関してだしたものの如く重要な史料となるものが少なくない。

さすが、『蒙古襲来の研究』の著者ですね。