令旨は僭称、家の別当宣と申しておくべき

宣旨が盛んに行われると同時に、諸家特に摂政関白家において、これに類する文書を出している。〔七七〕はその一例で、天永三年二月三日摂政右大臣藤原忠實が、その家の別当の替人を補任するために出した文書である。別当が右大臣の宣を被って出す形式を取っている。これを仮に家の別当宣と称しておく。なおこれと同じ類の文書を令旨と称していることもある。

〔七八〕文治二年六月十九日に、摂政九条兼実北政所別当を補任するときに、右の宣と同じ形式の文書を出し、しかもこれを令旨と称している。

また〔七九〕弘安六年二月二日、関白鷹司兼平が春日西塔検校を補任するために出した文書を令旨と称している。

元来公式令の定めによれば、令旨は皇太子三后よりいずる公文の称であった。しかして平安時代以来多く出でた奉書の形式の文書の中、皇太子以下皇族の許より出さるるものを令旨と申し上げた。先の公式令の令旨と奉書御教書の令旨とは文書の系統は相違し、また形式にも差異があるが、いずれも皇族の仰を下に伝えさせらるる文書であった。

しかるに摂政関白の仰を伝える文書をも令旨といったのは、僭称と申すべきである。とにかく当時かかる称呼があったことは注意しておく必要がある。今これらの文書を称するときには、家の別当宣と申しておくべきであると思う。なお奉書の形式を取った令旨に就いては、後項に於いて説いてある。とのことです。