親王将軍は袖判を用いない

次の代の頼家が将軍職に就き、しかも未だ公卿の地位に達しない間は、また頼朝の先例を追って、袖判の下文を発した。而して公卿に列せられるとまた政所下文を発した。この慣例は爾後実朝は言うに及ばず、藤原氏から出でた将軍頼経、頼嗣も同様であった。しかしその後親王が将軍職に就かれてからは、将軍から文書の右端に御花押を加え、すなわち袖判を加えられた下文を出すことはなかった。総じて下文の様式の文書は将軍家政所の下文に限っていた。世に往々袖判のある下文をとって、何親王将軍の御下文と称するものがあるが、それは皆誤りである。とのことです。