下文→袖判の下文→下云々を書かない文書

第三種 禁制

又内容の特殊なものとしては、禁制制札にも、この式の文書が用いられている。即ち〔一七一・一七二〕に挙げた文書は、建武三(延元元)年七月廿一日同八月十一日、足利尊氏同直義の出した禁制である。これには上記直義の禁制に見る如く、禁制を下した場所を始めに挙げているものもある。戦国時代の大名もかかる形式で禁制を出している。例えば〔一七三〕に挙げた天文十年十二月十日、甲斐の武田晴信が、同国廣済寺に下した禁制の如きはその一例である。之を要するに、下文の中に袖判の下文が生じ、更に之に下云々と書き出すものと、然らさるものとが生じ、遂には下云々と書かないものが、後世永く用いらるるに至ったのである。かような経路をとって、下文は戦国時代に於ける諸大名の文書の中に迄及んできたのであった。とのことです。