吉事は左辨官、凶事は右辨官

太政官には左右の両辨官があり、

左辨官は中務、式部、治部、民部の四省の事務に、

右辨官は兵部、刑部、大蔵、宮内の四省の事務に関することを取り扱った。

そして両辨官から各其の取り扱うべき事柄に関して出す文書が、一種の宣旨で、これを官宣旨と称した。両辨官の事務の分掌は右のごとき規定であったが、源師時の日記長秋記によると、天永四年三月四日、相模国の横山党の武士が殺害の乱行を致し、これが追討を常陸、相模、上野、下総、上総の五か国の国司に宣下した記事があるが、それにかかる凶事は右辨官に命じて宣旨を出さしむるものであることが見えている。従ってすでに平安時代の末期から、必ずしも右の分掌に従わず、凶事には必ず右辨官から下す官宣旨となっていたものと思われる。

〔七六〕に、鎌倉時代、寛喜三年二月廿三日附、右辨官から興福寺に下した官宣旨を挙げたが、これは清水寺悪行の張本人僧行實等を逮捕せしめんことを命じたもので、悪行人を逮捕するは、凶事に関しているから、右辨官から下したと見るべきである。なお鎌倉時代の末期後室町時代の初頭までに出来たと思われる宣旨宣下に関する故実書伝宣抄には、吉事は左辨官、凶事は右辨官から下すものであると、吉事凶事によって左右両辨官が分掌していたように説いてある。とのことです。

鎌倉に居住した源義朝

相模国鎌倉郡内鎌倉館に居住していた源義朝が、隣接する高座郡内にある大神宮領大庭御厨内鵠沼郷を郡境を超えて鎌倉郡内と号して押妨を致し、その部下清原安行等が、厨内の伊介神社祝荒木田彦松以下神人八人に刃傷を加え、彦松の頭を打ち破り万死に一生の重傷を負わしめた。ここにおいて厨の神人等は、この狼藉を大神宮禰宜に注進し、禰宜より更に祭主大中臣清親に注進し、清親より太政官に解文を上ってこの由を訴えた。これに対して太政官から義朝の濫行を不当としこれを停止し、犯人を差出さしめ、流血を以て清浄なるべき神領を汚したので、大神宮の例に任せて清祓を致した後、供菜運上の勤を致すべきことを大神宮司に通達したのである。

大神宮御厨に関する貴重な史料であることは勿論であり、その土地の歴史地理に関する資料として、また特に源義朝が鎌倉に居住し、豪族として威権を擅にしていたことと、のちにその子頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由を、右の事実に求めうること等、武門興起の情況を窺うに足る史料としても、実に重要なものというべきである。とのことです。

 

太政官の辨官から官符に代えて下した官宣旨

第四種 官宣旨

前項において、辨官から出す宣旨に二種あり、其の一を官宣旨と申すと述べたが、第二二図はこの官宣旨の一例である。上卿左大臣源有仁が職事から勅旨を受け、更にこれを辨官に伝宣し、辨官において左少辨源師能と右大史中原某とが奉って、この宣旨を出したのである。その書式を見るに、最初に左辨官下スとあり、その下に充所に当るものとして伊勢大神宮司と表してある。このような書き方は、前の宣旨と著しく相違している。これを特に官宣旨という。太政官の辨官から官符に代えて下したものである。とのことです。

宿紙がとぼしく白紙で代用された口宣案

〔七三〕は、後村上天皇御代正平十九年九月十四日、蔵人頭藤原實秀の奉じた口宣案。薩摩の島津親忠の来附を褒し、これを下野守に任ずるために出したもの。料紙は白紙を用いている。蓋し当時宿紙が乏しくして、白紙を代用せられたものであろう。吉野時代に、吉野の御所からは、料紙を小さく切った即ち切紙を口宣案の料紙に用いて出されたものがある。かかる場合には綸旨と同様悉く白紙である。今この口宣案の如く切紙でなく普通の大きさの料紙で、しかも白紙を用いたものは、実に他に類を見ない。

〔七四〕は、後土御門天皇御代文明十四年八月十一日、蔵人坊城俊名の奉じた口宣案、安芸の小早川元平を美作守に任ずるために出したもの。袖に足利義政の花押が加えてある。当時武士に下した口宣案にはかかる例がままある。将軍がこの任官を吹挙し、その関係から下附の口宣案に袖判を加えたものかと思われる。武家以外のものにはかかる例を見ない。この口宣案は、料紙が宿紙である。

賀茂社の斎王の宮城内の居場所

次に口宣案の例を示す。

〔七二〕は後醍醐天皇御代、元徳三年四月廿日蔵人頭葉室長光が奉じた口宣案。斎王とは賀茂大神に奉仕する斎王にして、その坐すところは賀茂社の近くにあったが、更に宮城内に便宜な所を点定して、坐ますところと定めた。これを初斎院と称し、古来衛府等をその所に充てたが、この口宣案の当時は、宮城内の諸司が破壊し、其の所と定むべき適当な場所が無かったので、禁中の別殿をそれに当てては如何との思召にして、その可否を官外記ならびに紀傳明経明法の諸博士等をして勘申せしめるために、この口宣案を出したのである。口宣が、任官叙位に限るもので無いことがこれでわかる。とのことです。

上卿が外記に伝宣し、外記が奉じて出した宣旨

〔七一〕は、上卿から外記に伝宣し、外記が奉じて出した宣旨の一例。前左大臣近衛基嗣は、建武四年(延元二年)四月十六日、関白となったので、この宣旨によって、基嗣を右大臣洞院公賢の上に列せしめられたのである。とのことです。

 

〔七一〕光厳院宣旨

 関白前左大臣藤原朝臣近衛基嗣

正三位行権中納言藤原朝臣資明(日野)宣、奉 勅、宜令列右大臣上者、

   建武四年四月廿三日大炊頭兼大外記中原朝臣師右奉

平安時代の数少ない宣旨の正文

〔六九〕は、鳥羽天皇御代永久三年十月七日の宣旨、上卿から辨官に、辨官から史に宣下して、史が奉じて出した宣旨の一例。この宣旨に依って、東寺の灌頂会を僧綱所に仰せて行わしめ、永代毎年十月十三日を以て式日と為すことを定められたのである。宣旨の正文にして、平安時代のものは極めて少ない。先に図版を以て示した天仁二年三月三十日附の宣旨とともに、かかる少ない中の例として尊重すべきものである。

〔七〇〕は、花園天皇御代正和三年四月四日の宣旨、これも同じ手続きによって、史が奉じた一例であるが、その書式が前記のものと相違している。始めに宣下すべき事項を事書に表し、次に本文となり、終わりに次第宣下の順序が書いてある。このときの上卿は北畠親房である。この宣旨によって、前大僧正尊教の譲与に任せて、権僧正性守をして、門跡を相承して、所職ならびに荘園坊舎を管領せしめられたのである。とのことです。