宿紙がとぼしく白紙で代用された口宣案

〔七三〕は、後村上天皇御代正平十九年九月十四日、蔵人頭藤原實秀の奉じた口宣案。薩摩の島津親忠の来附を褒し、これを下野守に任ずるために出したもの。料紙は白紙を用いている。蓋し当時宿紙が乏しくして、白紙を代用せられたものであろう。吉野時代に、吉野の御所からは、料紙を小さく切った即ち切紙を口宣案の料紙に用いて出されたものがある。かかる場合には綸旨と同様悉く白紙である。今この口宣案の如く切紙でなく普通の大きさの料紙で、しかも白紙を用いたものは、実に他に類を見ない。

〔七四〕は、後土御門天皇御代文明十四年八月十一日、蔵人坊城俊名の奉じた口宣案、安芸の小早川元平を美作守に任ずるために出したもの。袖に足利義政の花押が加えてある。当時武士に下した口宣案にはかかる例がままある。将軍がこの任官を吹挙し、その関係から下附の口宣案に袖判を加えたものかと思われる。武家以外のものにはかかる例を見ない。この口宣案は、料紙が宿紙である。