差出所記入式と非記入式の下文

広く下文と称すべき文書を、差出者という点から離れて、さらにこれを細かく観察すると、種々に区分することができる。

まず書式の上からみると、書出しに差出者の名称、例えば蔵人所とかあるいは関白家政所とかの如き文言を表して、次に下という一字を副えて何々下すと読ませるものと、単に一字下、下すと書き始めるものとの両様がある。仮に前者を差出者記入式下文、後者を差出者非記入式下文と称しておく。とのことです。

官宣旨の系統を引く、庁宣・下文

第三類 下文

官宣旨の系統を引く文書に、大宰府ならびに諸国司から出す庁宣と呼ぶものがあった。なおこれと同じ系統を引く文書に下文と称するものもあった。大宰府ならびに諸国司も、庁宣と共に下文を出していたが、むしろ他の方面においてこれを多く出していた。すなわち蔵人所を始め令外官以下の諸司、または院宮権門勢家社寺などからこれを出している。これら庁宣、下文は、その文書の系統を官宣旨の下文に引くので、これを総括して広義の下文と称して取り扱うこととする。とのことです。

令旨は僭称、家の別当宣と申しておくべき

宣旨が盛んに行われると同時に、諸家特に摂政関白家において、これに類する文書を出している。〔七七〕はその一例で、天永三年二月三日摂政右大臣藤原忠實が、その家の別当の替人を補任するために出した文書である。別当が右大臣の宣を被って出す形式を取っている。これを仮に家の別当宣と称しておく。なおこれと同じ類の文書を令旨と称していることもある。

〔七八〕文治二年六月十九日に、摂政九条兼実北政所別当を補任するときに、右の宣と同じ形式の文書を出し、しかもこれを令旨と称している。

また〔七九〕弘安六年二月二日、関白鷹司兼平が春日西塔検校を補任するために出した文書を令旨と称している。

元来公式令の定めによれば、令旨は皇太子三后よりいずる公文の称であった。しかして平安時代以来多く出でた奉書の形式の文書の中、皇太子以下皇族の許より出さるるものを令旨と申し上げた。先の公式令の令旨と奉書御教書の令旨とは文書の系統は相違し、また形式にも差異があるが、いずれも皇族の仰を下に伝えさせらるる文書であった。

しかるに摂政関白の仰を伝える文書をも令旨といったのは、僭称と申すべきである。とにかく当時かかる称呼があったことは注意しておく必要がある。今これらの文書を称するときには、家の別当宣と申しておくべきであると思う。なお奉書の形式を取った令旨に就いては、後項に於いて説いてある。とのことです。

符に代えるに下文をもってする

官宣旨の様式が基になって、他の文書が発展して来たことは注意すべき現象である。官宣旨の現れた以後の文書に、何々下あるいは単に下云々という書き出しをもって始まる様式の文書が多数現れるに至った。これらの文書をみな、下文という。

元来上位の役所から直属関係にある下位の者に向かっては符、直属関係に無い者に向かっては牒を発していたことは、前に述べたが、この官宣旨が官符に代わったと同じように、各役所から直属関係にある者に向かっては、みな下文を発し、摂関家以下の公卿ならびに社寺の政所等も、漸次符に代えるに下文をもってするようになってきた。

この現象は平安時代における文書の著しい変化として注目すべきである。この傾向は地方の国司の文書にも及び、やがて鎌倉に興起した武家幕府の文書の中にも入るに至った。これら各所から出した下文については、後項に下文と総称して、各種のものを次第して、その形様を説くこととする。とのことです。

紙面に印を捺さない官宣旨

                              左辨官下向安芸国伊都伎嶋社路次国国

  使散位佐伯朝臣景弘    従五人

 右、權大納言藤原朝臣實國宣、奉 勅、為令奉幣帛於彼社、差件人充使、発遣   

 如件、国社承知、依例供給、路次之国、亦宜准比、官符追下、

   治承三年十二月十七日     少史小槻宿禰(花押)

 右中辨藤原朝臣(兼光)(花押)

 

右は高倉天皇の御代、厳島使発遣の為に同社に至る路次の国々に出した官宣旨であり、書止めに官符追下とある。早い時代には、事実官符を追って下したのであろうけれども、この厳島使の頃には、形式的に書いた文言であって、実際官符の下ることはなかったようである。

なお、官宣旨は、官符官牒に代わるものであっても、紙面に印を捺したものはない。請印の手続きを要せず、官符官牒よりも作成に於いて簡単であった。とのことです。

官符官牒から官宣旨へ

同じ太政官から出る文書でも、官符と官牒との二種あったことは、その充所の相違によるものであった。官宣旨は、前掲図版ならびに部類編〔七六〕のごとく社寺に下され〔七五〕のごとく諸国にも下されており、その充所は、官符官牒のものよりも範囲が広かった、ただしこれが個人に充てて出ることのなかったことは、後の文書を見る上に注意しておくべき点である。官宣旨は右のごとく諸国にも下されたのであるが、元来国には、太政官から文書を下す場合には官符を下す定めであったから、官宣旨にして諸国に下されたものは、官符に代わったもの、また社寺には官符ではなく官牒を下したのであるから、官宣旨にして社寺に下されたものは、官牒に代わったものとみるべきである。かくて官宣旨は、官符官牒に代わって、太政官の命令を下に逮ぼす文書であった。かような次第であったから、諸国に下した官宣旨の中には、その内容により、本文の書止めに官符追下と書くものもあった。とのことです。

左辨官下云々の場合は、左を略して中辨某と書く

しかし左辨官下云々と書く官宣旨が必ずしも左辨官に属していた役人が出すものではなく、右辨官下云々もまた同様であった。延喜太政官式に左右辨官の一人が上庁に向って事を受けたとき、もし左辨官の取り扱うことを右辨官の人が受け、また右辨官の取り扱うことを左辨官の人が受けた時には、互いに相知しめ、事を受けた辨が施行するとあるから、事柄によって、左辨官下、右辨官下と区別はあったが、その事務を処理する人は、左右の辨官相通ずるものであったことが判る。

左辨官の辨ならびに史が、もし左辨官下云々の官宣旨を発するときは、例えば左中辨某、左大史某と書かず、必ず左の字を略して、単に中辨某、大史某と書く。右辨官の辨史においてもまた同様であった。第二二図に示した官宣旨において、少辨とあるは、左辨官下云々であるから、左少辨であったことを知る。とのことです。