訴訟の裁許状として用いられた下知状

下知状は叙上の如く訴訟の裁許状として多く用いられているから、之に依って、訴訟の制度を窺うことができる。殊に鎌倉時代は、庄園の組織が最も複雑化した時であって、本所領家と地頭との間、或は地頭と地頭との間に於て荘園内各般の事柄に関して訴訟の絶間が無かったものの如く、その裁許の為めに下した下知状は極めて多く遺っており、その相論の対象となった事柄は、当時の庄園の組織、或は本所領家と地頭との関係、家族制度等、社会経済史の研究資料として、皆活用すべき内容を豊富に持っている。これが室町幕府時代に至ると、下知状は裁許状よりも更に禁制掟書等に多く用いられ、之に依って当時の制度法令の内容、或はその運用等を窺い知ることができるのである。従って下知状は、中世社会の研究資料として極めて重要な意義を持つものと云うことができる。とのことです。

 

下知状は、平安時代の寺院関係から起ったもの

従って今日に遺る資料から見るときは、鎌倉幕府の下知状は、平安時代の寺院関係の文書から起ったものと考えられる。然し、これは東大寺に関する平安時代の古文書が、今日極めて多数伝わっている為めに、偶々その多い中にかかる下知状に関するものが遺っているのであって、寺院以外の諸家に関する文書にも、夙くから下知如件の文言と下知状の書式も、実際に於ては存在したのであるかも知れない。然し兎に角鎌倉時代以前から下知状と見るべきもののあることは大いに注意すべき事実である。又同時に下知状が、鎌倉時代以後に於ては、専ら武家特有の文書の如き観を呈して発達変遷して来たことも動かすべからざる事実である。とのことです。

下文が変形して下知状となる

右の諸例を見るに、位署の位置こそ武家の下知状と相違しているが、天喜四年、治暦二年、平治元年の下文は、武家下知状の第一種即ち書出しに「下云々」と無い形式のものに相応しているものと考えられる。かように考えると、武家の下知状の根基となるものは、既に平安時代の末期の古文書に現れていると見るべきである。鎌倉時代武家の下知状に於て、位署が上部から下部に下っているのは、後に説く奉書の形式の影響を受けたものと考えられるが、下文の形式そのものが、儀礼上の高下を考慮して下部に下ったものと考えられる。公式令に書式の挙げてある公文書類に於ける上位のものは上部に、下位の者は下部に位署を加えるこの原則に従ったものとも考えられる。要するに下知状が、下文が基になって変形したものであることは、前記平安時代に於ける寺院の下文の本文書止めの例文に「下知如件」とあるに依って動かすべからざる事実と云うべきである。とのことです。

書止めの文言が武家の下知状と同じ寺院の下知状

次に〔一六〇〕に挙げた仁安二年九月十二日附、實勝と申す者に、大和佐保田の本免田を預ける為めに出した文書がある。その差出しに位署を加えた僧侶が何寺のものか明かでないが、東大寺文書の中にある点から見て、恐らく同寺に関係のある人であろう。この文書は本文書止めが前記武家の下知状と全く同じである。唯差出者の位署は、前述した下文と同様武家の下知状と相違している。尚ほ〔一六一〕に挙げた寛元元年八月十七日の文書は、興福寺の僧長薗と東大寺三綱寺主俊快との伊賀黒田庄内出作の田地に関する相論を裁許する為めに出したものであるが、東大寺預所が、袖判を加えた同寺法務の仰を奉って出したもので、之も〔一六〇〕と同じ形式をとっている。とのことです。

書止めの文言からは下知状ともいえる寺院の下文

先に述べた下知状は、悉く鎌倉幕府以来武家に関するもののみであり、今ここに附記した異式の下知状も又武家に関するものであった。然らば下知状は、悉く武家に限るかと云うに、必しも左様では無かった。寺院からも夙(はや)く之を出していた実例がある。

第二種 寺院下知状

部類〔一五九〕に挙げた文書は、天喜四年四月十一日、東大寺から同寺領大和玉井庄に、加茂祭幣齋料に関して出した下文の草案であるが、本文の書止めが、「下知如件、故下」とある。前述した下知状の書止めと相通ずる点がある。而して書出しは下文式であり、丁度下知状の中の第一種即ち書出しに「下」とあるものとよく似ている。唯差出者の位署が、これは上段の署判であり、彼は下段の署判の相違がある。右はこの種形式の初見であるが、之に次いで治承二年三月十一日、房宮上座大法師から出した下文、(東大寺文書第二回採訪五)、又平治元年閏五月日、東大寺公文所の下文、(同文書第二回採訪一)、も同じ形式を具えている。この書止めの例文から云えば、此等の下文は、又下知状とも云い得るであろう。とのことです。

下知状、戦国時代の文書へと移って行かなかった

室町幕府奉行以後の下知状は、更に戦国時代諸大名の文書へと移って行かなかった。下知状は奉行衆の下知状の後はそのまま廃れたのであるが、徳川幕府の時代となり、その初期京都所司代が、商人に商売上の特権を許す為めに、若くは禁制に下知状を出している。下知状がここに復活したのであるが、それは最早前代程著しい文書ではなかった。

尚おこの下知状の異式のものとして、〔一五八〕に挙げた如きものがある。之は武士が高野山領備後大田庄に対して乱妨をするのを停止する為めに出した文書である。奉者の位署が無い。右兵衛督の旨を奉って出したのであるが、右兵衛督即ち一條能保が袖判を加えた人である。能保は文治二年三月、北条時政に代って、京都を守護した人である。かかる地位から右の如き文書を出したものであろう。然し之と同形の書式を具えた下知状は他に見るところが無い。之は次の項に説く、下文の変形した袖署判の下文に類似すると云うべきである。〔一六二ー一七三〕を参照すれば之がよくわかるであろう。

 

時代の推移とともに用い方が変化した下知状

要するに下知状は既述の如く、鎌倉時代の始めに於ては、文書を差出す者の地位の関係から之が用い始められたのであった。それが室町時代に至っては、禁制過所の如きその内容と、文書を受ける相手方とに依って下知状を用いるように変って来たのである。同一形式の文書でも、その時代の推移と共に、その用い方が変化した著しい例として特に注意すべき文書に、この下知状を挙げることができるであろう。とのことです。